アトランダムカフェ:Book & Cinema
2022-02-18T13:04:37+09:00
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サインデザイナー宮崎桂のブログ
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藤原てい『流れる星は生きている』
http://kmddesign.exblog.jp/32559478/
2022-01-27T13:04:00+09:00
2022-02-18T13:04:37+09:00
2022-01-27T13:04:30+09:00
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Book & Cinema
終戦時、満州からの引き揚げを自身の体験をもとに綴った長編。若い母親と乳飲み子を含む三人の子どもが、満州から朝鮮を経て日本へ帰り着くまでの壮絶な日々が克明に記されている。特に子どもの様子は読むのがつらいほどだ。初版は昭和24年。
なぜこの本に行き当たったのか、といえばひと月ほど前、家の近くを歩いている際、とても感じの良い日本家屋に遭遇したことにある。大きなその屋敷は、吉村順三のような建築家によるものではないかと思われ、築後5、60年はゆうに経っているように見えた。表札には「藤原」の文字が。だがそもそもは誰が住んでいるかということより誰の設計か、という興味から、角地に建っているその家の敷地に沿ってずっと脇道に入って行った。すると母家とは別の棟に「公益財団法人新田次郎記念会」という表記と、「藤原正彦」という表札があり、どうやらここは新田次郎の家らしい、どうりで立派なわけだと納得。しかも藤原正彦ってあの藤原正彦なのか、と次々に疑問がわき、さっそくググると新田次郎と藤原正彦は親子であるということを知った。
新田次郎は私の中では、山岳小説家というイメージで、著名な『八甲田山死の彷徨』『孤高の人』くらいの知識しかないが、登山家というより気象庁(当時は観象台という)に勤務していたらしい。息子の藤原正彦にしても『若き数学者のアメリカ』とか『国家の品格』くらいしか知らなかった。そんな中で興味をひかれたのが、新田次郎夫人の藤原ていという人も作家であることで、私は彼らより女性作家であるていさんの方が気になり、代表作『流れる星は生きている』を読んでみたくなった。そこで、さっそく近くの本屋でメモした紙を見せて尋ねると、店員の女性は検索もせずすらすらと、
「藤原ていさんの『流れる星は生きている』ですね、ハイ、少々お待ちください」
と、思いのほかスムーズに所定の場所からその本を持ってきてくれたのだった。(本屋の女店員もなかなかのプロである。良く知っていてエライ)
発刊されてすでに70年以上経っているので本屋の店頭にはないだろうと決めつけていたが、実はかなり著名な本で文庫化もされている。しかも戦後すぐのベストセラーで、今でも読み続けられている超ロングセラーではないか。知らなかったのは私だけ?
と、いうわけで、通りがかりの一軒の住宅からこの本にたどり着いたのだが、この本に興味を持ったのにはもう一つ理由がある。実は私の母も引揚者であったからだ。藤原ていさんと違うのは、終戦を迎えたのが満州ではなく朝鮮の京城であったこと、年齢ももう少し若く未婚であったことだが、母の話によると、終戦時、兄と二人だけで日本へ引き上げてきたということだった。父親(私の祖父)は旧制中学の校長をしており、学校の後始末のためすぐに帰れないということで、まずは先に母と兄が親からお金を持たされ、大枚はたいて釜山から闇船に乗って山口県の先崎へたどり着いたという。今にして思えば無事でよかったと思う。(無事でなければ私の存在はないが)そんなことで少し母の体験と重なり実感がわいたのだ。
戦争とはイコール飢餓である、と思う。戦場で戦っている者だけでなく一般市民も、そしてまさにこの本にあるように敗戦の挙句引き上げてくるすべての人にとってもそれがどんなに大変だったことか。生きることは食べること。食べるものがないことほどつらいことはないだろう。思考も行動もメチャメチャになって挙句の果てに間違った行動に走る。戦争をしたがっている人は、イデオロギーとか理屈ではなく、まずは自らが野ざらしで限界まで断食してから物申して欲しい。
話を戻して、ていさんは帰国後、日常生活に復帰するのにかなりの時間を要したとのこと。人間死ぬ気になれば何でもできるとはいうものの体力の限界を超えて、おそらく気力だけで生き抜いたのだろうから当然かもしれない。ただ、驚くことに休養していた数年の間にこの本を書き上げたのだった。新田次郎より先に世に知られ、作家になったのだ。
そして私が気になった例の藤原邸だが、どうやらそこはこの本の印税で建てられたものらしい。彼女はどこまでも気丈で逞しい女性である。そして、底知れぬパワーに感動し、励まされた。
KEI
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プールをめぐる三つの殺人
http://kmddesign.exblog.jp/18350694/
2013-01-18T16:19:00+09:00
2020-08-24T11:10:31+09:00
2013-01-15T20:33:44+09:00
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Book & Cinema
プールの写真をUPしようと思ってふと思った。
水のゆらめきは絵に描けばまさにデヴィッド・ホックニーのようだ、と。
そしてこのゆらめきから始まる『Swimming Pool』というイギリス映画を思い出した。
『Swimming Pool』はフランソワ・オゾンという監督のミステリアスでセクシャルな作品である。
中年の女流推理小説家が主人公なのだが、そこへ若い女が交錯する。
年齢も性格も相対する二人。女流作家は若い女の若さや奔放さに嫉妬する。しかし、若い女は自分のアイデンティーのなさに不安を持っている。不安の裏返しが奔放な行動となって表れるのだ。どちらの女性心理もわからないではない。ないものねだり、なのだから。
ここでいうところのプールは、物語の舞台となる夏の別荘のプールだが、そこは殺人が行われたかもしれない疑惑の場所である。
『Swimming Pool』ではプールを、二人の心理や葛藤を投影する場として使っている。
もうひとつのプールは、少々古いが、ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』のプールだ。「サンセット大通り」とは、往年の大女優の邸宅がある場所を示しているのだが、過去の輝かしい栄光にしがみつく女優の今を「サンセット」と表したのだろう。
物語は、女優の大邸宅のプールに男の死体が浮かんでいるところから始まる。このシーンは見事なまでのインパクトがあるのだが、それは死体をプールの底、つまり水中から、上の世界を見上げるように撮っているから。カメラは目を開けたまま死んでいる男の顔や、死体を見下ろすプール際の人々を追う。水中からの視点とは、一体誰の視点なのか?神のみぞ知る、である。おそらく監督は「逆撮り」がやりたくてこの作品を作ったのではないかとさえ思わせるようなシーンだが、残念ながらその後の展開ではそうした「視点」を感じさせるものはない。
ただ、プールで死んだ男は、プール付きの家に住みたいと思っていたしがない脚本書きで、売れない男の皮肉な結末にプールが使われている。
三作目は日本映画の『告白』である。推理作家、湊かなえの同名小説を映画化したもので、女優松たか子が主人公の女教師を演じている。
この映画は、ストーリーはともかく映像と音声が極めて美しい。女教師の語りと共に展開する映像は、言葉がそのまま映像になって投げ出されたようだ。
ここでのプールは女教師の一人娘が殺された場所である。神聖であるはずの学校という場所、そのプールで取り返しのつかない行為が行われたのだ。プールは心の闇だ。
水という場所、水という液体、その関係からか、この作品ではさまざまな「液体」に対する表現が際立った。
こうしてみると、三つのプールの話に共通するのは偶然にも「殺人」であることに気付く。
プールは「殺人」を呼ぶ場所なのだ!
何とも物騒な結論になってしまったが、所詮はフィクション。心配には及ばない。
それよりこう言い換えることができるかもしれない。
プールとは、「想像力をかきたてる場所」である、と。
KEI
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ビブリア古書堂の事件手帖
http://kmddesign.exblog.jp/17718859/
2012-07-04T11:58:00+09:00
2020-08-24T12:18:42+09:00
2012-07-02T15:45:58+09:00
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『ビブリア古書堂の事件手帖』 、既にお読みになった方もたくさんいらっしゃるでしょうね。 これはライトノベル、略して「ラノベ」というジャンルにあたるのだそう。メディアワークス文庫というところから出版されているが、この文庫の特長は、表紙が全てイラストなので、平台に並んでいると一見コミック誌のようにも見えること。
内容は、タイトルの通り古書がテーマ。様々な古書にまつわる謎とそれを取り巻く人々が巻き起こすストーリーは一話完結型で読みやすい。
何重にもなった謎解き、スリリングな展開、推理小説とは一味違うハラハラドキドキ感、テンポの良い展開は、まさにコミックやTVドラマを見ているよう。
しかし、中身はラノベという軽い雰囲気とは少々異なる。宮沢賢治の『春と修羅』 の初版の話、藤子不二雄の無名時代の本の話、『時計じかけのオレンジ』の感想文など、どれをとっても興味深く、さらに本のことを知りたくなっていく。この手の話はマニアックであればあるほどおもしろいのかも。
本書で何度も登場する『クラクラ日記』(坂口安吾の妻三千代の著)などは、思わず読んでみたくなったほど。
全体を通してほのぼのした空気も好感持てます。
KEI
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『暮しの手帖』とタイトルロゴ
http://kmddesign.exblog.jp/17285354/
2012-03-08T15:53:00+09:00
2020-09-11T18:20:22+09:00
2012-03-08T15:53:30+09:00
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Book & Cinema
『暮しの手帖』創刊号。昭和23年(1948年)に発刊された。
花森安治さんの表紙デザインは今見てもちっとも古くない。敗戦後間もない、どさくさした時代のものとは思えないほど斬新で、日本の新しい時代が始まったことを象徴する希望の一冊かもしれない。
写真でお気付きのように『暮しの手帖』は、発売当時は『美しい暮しの手帖』というのが正式名称だったようで、それはひとりひとりの日々の暮らしがどれだけ大切かを謳っているようだ。
今更ながら興味を惹かれ、昨年生誕100年記念で出版された『花森安治のデザイン』を購入した。この本には、花森氏の存命中『暮しの手帖』の表紙となった原画153点の全てが掲載されている。
それを見て気付いたのは、表紙のデザイン画と組み合わされた『暮しの手帖』というタイトルロゴのこと。
びっくりすることに毎号違っていたのである。大雑把に見れば同じ人が書いているので同じように見えるのだが、大きさ、太さ、文字の縦横比、文字間の空き、塗りつぶし具合など、似ているようでいてふたつと同じものはない。「暮し」という字の草かんむりも、離れているものと一本に繋がっているものとの二種類がある。
文字組は1号から12号までと15号が縦書きで、以降はほぼ雑誌の上部に横書きだが、中には例外的に一行の縦書きや二行の横書きもあった。レイアウトの都合上、柔軟に考えられているようだ。
そして、当初の「美しい…」のタイトルは1号から21号まで付けられているが、段々文字が小さくなり、22号目で自然消滅し、現在の『暮しの手帖』に変わっている。
なんとなく頭に刷り込まれていた花森流の『暮しの手帖』のロゴが、毎号表紙デザインと共に新たに書き起こされていたとは!
複写が容易ではなかった時代ということはわかるが、最期の1978年まで全て手書きで描かれていた。
まさにこの雑誌のコンセプト通り、丁寧で良い仕事していたのですね。
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ミルクによるミルクのためのミルクの本
http://kmddesign.exblog.jp/16584686/
2011-09-21T17:24:00+09:00
2020-08-26T10:39:01+09:00
2011-09-21T17:24:28+09:00
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Book & Cinema
人類は哺乳類だった…当たり前のことだけれど、普段意識することなどないだろう。ミルクは大事だよ、ミルクを飲みましょう、という哺乳類必読の本の紹介。寄藤文平さんのイラストによる「ミルク世紀」は、ミルクによるミルクのためのミルクの本だとか。ハテ?どこかで聞いたような…まぁいいでしょう。人民も政治家もみんな哺乳類、ミルクをどんどん飲みましょう。
内容は、為になるミルクの知識や、ウシのこと、酪農家のことなど。しかしながら半分くらいはどうでもいい話題、例えばミルクに何を混ぜるとおいしいとかまずいとか、今時の「ちょい足し」みたいなコーナー。他にもミルクはイライラを静める効果があることから、問題児向けのミルクのレシピも登場。
デザイン面から語ると、この本は全ページ、白黒以外イエローとターコイズブルーの二色しか使われていない。それでいて、ぎっしぎしにひしめくイラストがまるでミルクをこぼしたみたいにピチャピチャ溢れ出し 、見る者を楽しいミルクの世界、いやミルクの世紀へと引き込みます。
ミルクの雫を垂らした瞬間の形、スローモーションビデオなんかでよく目にする王冠型に飛び散るあの形、あれを一般名称でミルククラウンと言うが 、作者はミルクという形のない液体をミルククラウン型のキャラクターで表現している。ミルコップ、ミルティン、ウシさんなどに加え、ウォーリーをさがせ!のように隠れ宇宙人も登場。
とにかくハイクオリティーなキモカワイさタップリ。寄藤ワールド全開です。美術出版社刊。
KEI
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10万年後へ伝えるピクトグラム
http://kmddesign.exblog.jp/16102479/
2011-06-09T14:18:00+09:00
2020-09-11T18:28:54+09:00
2011-06-09T14:18:08+09:00
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Book & Cinema
これはフィンランドの原子力発電所から出される放射性廃棄物の処分方法にまつわる話である。
ヘルシンキの西240kmにあるオルキルオトという島(現在原子力発電所がある)の地下500mの地点には巨大な放射性廃棄物の処分場が存在する。生物にとって最も危険なゴミ捨て場なのだ。
廃棄物処分場の名前は「オンカロ」。フィンランド語で隠れた場所、という意味らしい。
人類が動物と大きく異なる進化を遂げたのは「火」を扱うようになったから。そして、人類はさらに原子力発電という「火」を手に入れた。原発は第二の火だと作者は言う。
カメラは初めてオンカロの建設現場に入った。
固い岩盤をダイナマイトで爆破しながら、巨大なアリの巣状の処分場を掘り進めていく映像が映し出される。オンカロは、2020年には完成し、核廃棄物を封じ込め満杯になった段階で穴を塞ぎ、永久に葬られる。核廃棄物が人類にとって無害になるためには10万年を要すると言うから、それはつまり安全は10万年後にやってくる、ということになる。
10万年といってもピンとこないが、ネアンデルタール人から現代人までがおよそ1万年、それと比較すると、10万年先というのがいかにとんでもない長さかとわかる。そもそも今から8千年後には地球が氷河期に入ると予測されているので、その時期を超えて人類が生き長らえているかどうかすら誰にもわからない。
この作品にはもうひとつ大きなテーマがある。それは、もしも未来の人類がこの処分場を発見してしまったら、ということだ。なかなか壮大な心配事である。
もちろんオンカロは、未来永劫発見されないに越したことはないが、何らかの拍子に入り口が発見され、その時代の人々が、まるでピラミッドを発掘するように、オンカロを掘り起こさないとも限らない。彼らに危険を伝えるためにはどうしたらよいのか。言葉や文字は永久ではないから、むしろ絵がいいのではないか、というのだ。
言葉の通じない相手に有効なのは絵文字(ピクトグラム)である。原発のマークにドクロ、そして避難する人間。その三つを組み合わせたピクトグラムを記せば、危険だということが伝わるだろうという予測。
確かに、未来の人類が今とそんなに変わらない生物であり続けるのなら、ピクトグラムが何を表すものかは伝わるだろう。
しかし、だからといって開けないという保証はどこにもない。
なぜなら、いつの時代も人類は、開けてはいけないパンドラの箱を開けてきたのだから。
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たったの25年
http://kmddesign.exblog.jp/16088159/
2011-06-06T19:08:00+09:00
2020-08-26T15:35:21+09:00
2011-06-06T19:08:40+09:00
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Book & Cinema
美しい、という表現は適切ではないのだろうが、この写真集にあるチェルノブイリは美しい。廃墟だからだろうか。そこには放り出された25年という時間がある。未だガイガーカウンターが高い数値を出す彼の地は、それであっても植物は生き生きと茂り、耕せば食物も育ちそうな様子である。人の手で汚されてしまった土地であることなど、写し出された風景からはうかがえない。
著者は二度現地を訪れ撮影しているらしい。それからもわかる通り近年では、チェルノブイリは負の遺産としてキエフの観光資源にもなっているとか。もちろん安全に問題がなくなったわけではないから、立ち入るのはもっぱら自己責任ということになるが。
放射能汚染にとって25年なんてあまりに短い時間なのだ。
地震にしろ事故にしろ、起きてしまったことはどうにもならない。時計の針を戻せるわけじゃないし、こぼれたミルクは戻らない。
とてつもなく大きなマイナスをゼロに近付けるには、この先気の遠くなるような時間が必要になるのだろう。
KEI
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お侍がプリンを作る
http://kmddesign.exblog.jp/15730367/
2011-03-29T09:59:00+09:00
2020-08-27T16:39:03+09:00
2011-03-29T17:01:12+09:00
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Book & Cinema
まずはウィキペディアからの引用で、あらすじを書き留めてみよう。
シングルマザーの遊佐ひろ子の前に現れたのは、180年前の江戸時代から来た木島安兵衛だった。帰る方法もわからない安兵衛は遊佐家の居候になり、家事全般を引き受けることに。家事に夢中になったり息子の友也に礼儀や男らしさを教えたりと徐々に3人で暮らしていけるかと思うようになった頃、友也のために作ったプリンをきっかけにしてお菓子作りをはじめた安兵衛が、手作りケーキコンテストに出場することになりたちまち人気パティシエになってしまう。やがて3人に切ない別れが訪れる…。
これだけでは何が何だか全くわからないだろうけれど。
江戸から現代へワープしてしまったお侍、しかもお侍が得た職業が今をときめく人気職業パティシエという設定がまず面白い。のだが実はそれだけでなく、この一見滅茶苦茶な設定やストーリーの中には、実は現代にも通ずる家族や仕事など様々な問題が詰まっているのだ。
まずは、シングルマザーという設定のひろ子。彼女が離婚に至るまでの経緯や、働く母親であれば誰もが直面する現実的な問題がつぶさに描かれる。
次に、男女の役割と相互理解の難しさだ。有能な主夫となった安兵衛だったが、パティシエという職を得た途端、現代の男と同じように「外向き」の仕事人間に。挙げ句の果てに、家庭をかえりみなくなってしまう。男女を問わず働く者にとって、仕事と育児の両立がいかに難しいかがあらわになっている。
突き詰めると、『ちょんまげぷりん』は、夫婦、家族、子育て、職業など、生きていく上で誰もが直面する、どの時代にも共通の問題に焦点を当てているのだが、映画では、そうした日々の出来事と親子や男女間のほのぼのとした愛情がいい具合に混ざり合い、コミカルにドラマが展開していく。
唯一残念なのは、映像的な狙いやカメラワークといった、「映画」としての作り込みや演出性の乏しさ。しかし逆に考えれば、まるでホームビデオのような自然体の映像だからこそ、リアルな生活感を味わえるのかもしれない。
いずれにしろこのストーリーとアイデアは大したものである。
KEI
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ミステリーの書き方
http://kmddesign.exblog.jp/15331692/
2011-01-14T15:13:00+09:00
2020-08-28T16:46:25+09:00
2011-01-14T15:13:52+09:00
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「ミステリーを書こう!」と思ったわけではもちろんないけれど、本屋の書棚に並んだこの本にふと目が留まった。畑違いではあるものの興味を惹かれるタイトルである。
「…の書き方」という平凡で直接的な言い回しは、もし私がその道の駆け出しであるならば、480ページに及ぶ本の隅から隅までを読み尽くし、創作上のヒントがないかをしらみつぶしにチェックするだろう、と思わせる。そうでなくとも見たい!知りたい!という気にさせられる雰囲気は充分だ。
日本推理作家教会編著の『ミステリーの書き方』(幻冬舎刊)は、文字通りミステリーを書く作家志望の人、もっと具体的に言えば賞狙いの作家の卵に向けて、大御所たちが贈るミステリー作家道への指南書である。
著者は東野圭吾、森村誠一、逢坂剛 、野沢尚、宮部みゆき、赤川次郎など43名。一言でミステリーと言っても幅は広いが、ジャンルの異なる著名作家が幾つかのパートを分担し、それぞれが持ち得るノウハウを存分に披露している。自作を例にとってひとつひとつ種明かしをしている人、作家の心構え的なことを説く人など、読めばなるほどと納得させられる。その訳は、内容はもちろんのこと、文章やインタビューのまとめ方がうまいから、なのだ。
今の時代、どんなことでもすぐに答えを求められる。こうやったらこうなります、というようにお手軽で、ひょっとすれば自分にもできるかもしれない、といったとっつきやすい親近感が喜ばれ、それは小説の世界でも例外ではなさそう。だからこうして本書が成り立っているわけだが、ノウハウ本というものは、読んで「こうすりゃいいのね 」とわかったところで、小説なら「書く」という手を下す行為と仕入れたノウハウとの間に天と地ほどの隔たりがあることは言うまでもない。
小説も商品、ヒットを生み出さなければ社会性はない。そして、商品として世に出すためには、書き手はもちろん、送り出す編集者の手腕が大きいこと、作家といえどもひとりで悶々と作品を生み出すのではなく、読者、あるいはメディアといった巨大なクライアントのニーズに動かされ、生産システムが構築されている、それが普通らしい。
これを読んで一番納得したのは、どの世界も同じだな、ということである。「ミステリーの書き方」は、そっくりそのまま「デザインの生み出し方」に置き換えることができるのだ。
本書では執筆者43人以外にも、協会に所属するプロの作家137人から回答された様々 なアンケートやFAQが掲載されているが、一例を挙げるまでもなく、よくある質問として、「職業作家として成立する条件は何ですか?」「職業作家の大変さと楽しさは何ですか?」といったものが並ぶ。(もっと具体的なものもあるのだが)
それらに対し 、多くの作家が語るところはこうだ。
一言で、「プロとはコンスタントに一定のレベルの作品を書くことができる人」「プロにとって大変さも楽しさも書くことにあり」と。
続いて、「作家を目指す人たちに必要なものは何ですか?」に対しては、「ひたすら書くしかない」「片っ端から名著を読みまくれ」「好きな作家を真似する」などが挙げられている。
何事もやり続け、興味を持って探求する中で、発見し、方法論や個性も生まれるというものである。
継続は力なり、これこそどんな職業にも通じる最強の 「ノウハウ」だ。
KEI
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ボールのあるところサッカーありき
http://kmddesign.exblog.jp/14203613/
2010-07-16T20:16:00+09:00
2020-09-04T16:03:47+09:00
2010-07-16T20:16:01+09:00
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Book & Cinema
岡田JAPANの予想を裏切る?健闘ぶりに、感動に飢えている国民一同がサッカーファンとなり大いに盛り上がったワールドカップ。今年一番のさわやかな話題かもしれない。
人類はみなサッカー好き、それを証明するような写真集が『マグナムサッカー』である。
「マグナム」とは、偉大な報道写真家ロバート・キャパが創設した写真家集団の名前だが、写真集はそのメンバーが長年に渡り撮った写真からサッカーの場面を集めて編纂している。
サッカー写真といってもそこにあるのはプロ選手や試合の決定的瞬間ではなく、世界の至るところ市井の人々がボールに群れる路地裏サッカーだ。
ボールと人との傑作!な瞬間や、必ずしもサッカーにフォーカスして撮ったわけではなさそうな一枚の中に偶然映っていたかのような場面の数々は何とも微笑ましい。
サッカーには、国、人種、宗教、職業いずれもまったく関係ない。大人も子供も、男も女も関係ない、天気も季節も関係ない、路地裏であろうと荒野であろうと、地球上のいかなるところでもボールのあるところサッカーは存在する。
みんなこんなにボール好きだったんだ、と思わせられる。
考えてみれば当然かもしれない。
誰もみな毎日巨大な青いボールの上で泣いたり笑ったりしているんだもの。
KEI]]>
共食いキャラ?大集合
http://kmddesign.exblog.jp/12606815/
2010-01-04T19:53:00+09:00
2020-09-09T10:54:42+09:00
2010-01-04T19:53:20+09:00
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Book & Cinema
早くも5年目を迎えてしまったアトランダムカフェ、今年もよろしくお付き合いください。
歳を取ると一年が短く感じられるのだとか。最近読んだ本の中でこの「法則」を知り、ショックを受けつつも実感ひしひしです。
さて、年明け一番は本の紹介から始めましょう。
看板に多少なりとも関わっている方には見逃せない一冊。『共食いキャラの本』は先に出た「ピクトさん」に類するキャラクターの観察本である。
言葉で説明すると難しいのだが、たとえばトンカツ屋さんの看板には豚のキャラクターがたくさん登場するが、その豚たちはなぜか「おいしいよ」と言って自分のおしりを包丁で切ったり、ナイフとフォークを持って食べようとしたり、そういう姿なのである。涙ぐましい豚たち…著者はこれを「共食いキャラ」と名付けたわけだ。
何気なくやり過ごしているとどうってことない世の中の風景は、よくよく観察してしまうと不思議で残酷で滑稽なものだらけだった、というわけ。着眼点がさすがである。
そんな「共食いキャラ」たちは豚、牛、鶏のみならず、魚介類、野菜、果物にまで及び、看板をはじめ、料理教室のとんでもないポスターや、パッケージ、シール、箸袋…と街中のそんじょそこらに潜んでいたのだ。身近にこんな世界があったなんて…。
写真はもちろん、添えられた解説も笑えます。
KEI
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ミリキタニの猫
http://kmddesign.exblog.jp/12160181/
2009-10-20T13:27:00+09:00
2020-09-11T12:37:22+09:00
2009-10-20T13:27:10+09:00
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Book & Cinema
ご存じない方のために少し説明をすると、これは猫の映画ではない。波乱に満ちたひとりの男性の人生を辿るドキュメンタリー映画である。
主人公はジミー・ツトム・ミリキタニ(三力谷勉)。1920年生まれの日系人である。彼は人生の終わりの時期にあってニューヨークの路上で絵を描くホームレスだった。
とある日、アメリカ人女性映像作家リンダ・ハッテンドーフは、街角で毎日猫の絵を描いているミリキタニに出会う。彼女は、互いに猫好きという共通点から彼の日常を記録することになるのだが、やがて彼の人生そのものを映像で追うことに。
そのきっかけは2001年の9.11テロ事件だ。この出来事をきっかけに路上生活ができなくなった彼は、ハッテンドーフの好意で彼女の家に移り住み、それからだんだん心を開き、二人の共同作業としてのドキュメントが生まれていく。
サクラメント生まれの広島育ちであるミリキタニは、広島時代に原爆の体験をし、10代後半でアメリカに渡ってからは日系人の強制収容所に入れられる。戦後解放されてからもずっと孤独な暮らしで、働けなくなった挙句の果てに路上生活者となる。自ら戦地に行った経験がないのにこれだけ戦争に翻弄された人もそうはいないだろう。それゆえ彼はアメリカという国を決して許しはしないし、世話になろうとも思わない。無知で方策のない部分ももちろんあるのだが、アーティストとしての誇りは人一倍高く、誰にも頼らず無心にエネルギッシュな絵を描き続ける。
人の人生が一度しかないものなら(そうなのだろうけれど)ミリキタニの人生はそれを端から端まで全て使い切ったような、まさにドラマチックな生き様である。それでいてこの老人には悲壮感やあきらめがない。そこがこの人の大きな救いだ。
映像を見ているとミリキタニの底知れぬパワーこそが、めぐりめぐって人を動かし今回の映像を生み出したように感じられる。おそらく人生最期におけるハッテンドーフ監督との出会いも、見えない大きな力(それが猫だったのだろうか?)が働いていたのだろう。
(『ミリキタニの猫』はDVD化されています)
KEI]]>
コーヒーが語る人生
http://kmddesign.exblog.jp/10920215/
2009-04-27T15:59:00+09:00
2020-09-18T18:27:54+09:00
2009-04-27T16:01:28+09:00
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Book & Cinema
アトランダムカフェ店主ではあるものの、実はそんなにコーヒー好きではない。いやむしろコーヒーは飲まない方だろう。なので幻のコーヒー「コピ・ルアック」にもさほど興味があったわけではないのだが、先日、映画『最高の人生の見つけ方』を見ていてふと、一度味わってみたくなった。
アメリカ映画『最高の人生の見つけ方』はいかにもアメリカ的、そしてTVドラマ的な、要するに極めてわかりやすい映画である。
病に冒され余命6ヶ月と宣告されたふたりの老人が、死ぬまでにやってみたいと思っていたことに次々挑戦していくストーリーである。
主人公は大金持ちの実業家と自動車修理工。境遇の異なるふたりが愛飲するコーヒーが、コーヒー界の王者とも称されるコピ・ルアック、もう一方はどこにでもある庶民の味インスタントコーヒーだ。どちらがどちらかは言うまでもない。
いつでもどこでもコピ・ルアックを携え、それしか口にしない男は、一代で金や名誉をものにしてきたパワフルな成り上がりである。しかし、それゆえ犠牲にしてきたものも大きい。たとえば家庭である。死ぬ間際になって愛に飢えて意固地になっている男…。一方、愛する家族に囲まれ、知性はありながらも自動車修理工に甘んじ(黒人故か)、労働者としての人生を地道に歩んできた男、ふたりはあまりにも対照的である。それぞれに残された時間を誰のためにどう使うのか?人生の最終局面で人が求めるものとは一体何なのか?
『最高の人生の見つけ方』は映画としては秀作ではないものの、唯一、ふたりの人生を「コーヒー」の違いで描いている辺りは、なるほど良く出来ている。
コーヒー通ならご存知の通り、コピ・ルアックとはインドネシア島のジャコウネコのフンから取り出されたという何とも珍奇なコーヒー豆である。コピとはインドネシア語でコーヒーを、ルアックはジャコウネコを指すらしい。ジャコウネコは真っ赤に熟したコーヒーの実の果肉が好きらしく、それを好んで食べるのだが、固い実の部分は未消化でそのまま排泄される。コーヒー豆は、ジャコウネコの体内を旅する間に腸内細菌によって発酵され、独特の香味を携えてくるそう。どうしてそんなものが珍重されるのかはよくわからないが、味はともかくとして、ひとつには収集するのに手間暇かかるということがあるだろう。ジャコウネコがもたらした付加価値とはどういうものなのか?「ジャコウ」と聞くとフェロモン系の香水を連想するが、コーヒーとフェロモンの組み合わせはいまいちピンとこない。いずれにせよ妙な食べ物(飲み物?)であることに変わりはない。排泄物から拾われたということを忘れて味わった方が幸せかもしれない。
…そうこう考えているうちにキッチンではグツグツとお湯が沸いたようだ。ペーパーフィルターに挽いた豆を入れ、熱湯を注ぐ…さて、初めて味わう富豪の味は、一体いかがなものだろうか?
KEI
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折り梅
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2009-02-25T15:33:00+09:00
2020-09-23T14:50:05+09:00
2009-02-25T15:34:28+09:00
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Book & Cinema
休日、高齢者の介護施設でギター演奏会を見学することになった。
演奏者は人の良さそうな60代の男性。明らかにリタイア組で、ギターが趣味と見た。観客は皆90に手が届きそうなおばあさんばかりだ。
ソロ演奏は、定番の『禁じられた遊び』1曲のみで、そのあとは歌詞を見ながらみんなで合唱。最初は簡単な童謡から始まり、次第に『影を慕いて』などの名曲へと移り、最後は『千の風になって』で締めくくられた。なかなか難しい歌ばかりだが、人生の先輩たちが懸命にか細い声をふり絞って歌う姿は感慨深く、胸が熱くなった。
会が終わり、天気が良かったのでぶらぶらと歩いていると広い梅林に行き当たった。都内の住宅地でこれだけの梅林は珍しいだろうが、敷地は公園ではなく生産緑地。残念ながら中に入ることはできない。
おばあさんたちの姿がまだ頭から離れないうちに梅に巡り合ったせいか、かつて見た映画『折り梅』を思い出した。
『折り梅』は、一言で言えば、認知症になった姑を嫁が見守る話で、姑役を吉行和子、嫁役を原田美枝子が熱演している。どこにでもありそうな平凡な話だが、当事者にとっては家族が認知症になるのは大変な出来事であろう。
女手ひとつで息子を育てた姑はプライドが高い頑固者。当初はそんな老婆の行動に振り回される嫁と家族だったが、その姑の存在が徐々に家族全体の絆を強くしていく。
『折り梅』というタイトルは「梅の枝は折って生けても枯れない」という姑のセリフから取ったようだが、これは女性の生命力の強さを梅に例えたものだろうか?よくわからないけれど、まさに女はしぶといということなのか?監督も原作も確か女性だったはず。
花が盛りでも眺める人のいない梅林はどこか寂しい。
生産緑地は梅の実を採るためのものなのだろうか?ごつごつした梅の枝が、花を生ける老婆の手のイメージに重なって見える。考えたくはないが、明日は我が身、いずれは皆確実に「折り梅」なのだ…。
KEI
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向かいの窓
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2009-01-16T13:08:00+09:00
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2009-01-16T13:08:56+09:00
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Book & Cinema
「他人の家の窓越しに自分の家の中を見る」ということを想像してみて欲しい。
考えただけでもいたく恐ろしく、普段自分が埋もれてしまっている日常を客観的に見せつけられるような衝撃と言えよう。
イタリア映画『向かいの窓』はそんなお話。
ところはローマ。30代女盛りの主人公は、平凡な主婦。甲斐性のない夫と手のかかる子どもの世話、生活のためだけの楽しくもない仕事に明け暮れ、パティシエになりたかったいつかの夢もどこへやら、イライラの続く日常を送っている。そんな彼女は毎夜更け、窓越しに隣の家を眺めるのだが、いつしかそこに暮らす男が気になる存在となっていく…。
男は独身で銀行員。あるきっかけで知り合ったふたりは、互いに惹かれ合うようになるのだが、やがて男に転勤話が浮上。引っ越しの前日、最後の一夜を、と決心し男の部屋を訪れた彼女は、そこで初めて他人の家の窓から自分の家の中、すなわち自分の日常を客観視することとなる。
そして彼女は気付くのである。自分の築いてきた家庭も案外幸せなのかもしれない、というとんでもなく重大な事実に。
また、それと並行して彼女は夫が家に連れてきた記憶喪失の老人の世話をし、ユダヤ人らしき彼の素性を知ろうとするのだが、それが偶然にもパティシエへの道が開かれることに繋がっていく。人の好い夫の行為が幸運を運んでくれたのである。
この映画では過去の歴史的、政治的な出来事や登場人物があれやこれやと錯綜し、主人公になかなかスポットライトが当たらないことが難点だが、結局のところ幸せとは何か、あるいは幸せは自分で掴み取るものである、という日常で忘れていたことを気付かせてくれるいいお話なのである。
ただこの映画、なぜか日本未公開なのだとか。題名が語るように「窓」のシーンは一見の価値ありである。
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