2007年 03月 16日
川は流れる
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宴席でカラオケを歌う羽目になった。お酒は飲むが、人前で歌を歌うことは人生の中でも滅多にない私である。いきがかり上のことで、拒むほどの出来事でもないので、一曲歌って許してもらおうと思った時、ふと浮かんだのは「川は流れる」という歌だった。
私の通っていた中学では帰りのホームルームの時間に毎日歌を歌って一日を締めくくっていた。歌は月ごとに代わり、模造紙に大きな文字で書かれた歌詞を見ながら、クラス一同がアカペラで斉唱していた。今考えればどうやって音程をあわせていたのかも不思議で、それを想像するとなにやらお笑いである。
そんな純粋無垢な中学生が、学校で堂々と歌う歌としては「川は流れる」はあまりにも渋く無常な歌詞ではあるのだが、それがなぜか今月の歌のひとつだった。しかも私は、数ある今月の歌の中でこの歌しか記憶に残っていないのだ。
「わくら葉を今日も浮かべて…」で始まるこの歌の、「わくら葉」はその時初めて知った言葉だが、こんな詩的な言葉を日常会話の中で使うことはないし、おそらくこの先もなさそうに思う。
「川は流れる」はその当時巷で流行っていた歌というわけではなかった。流行歌であればむしろ学校で歌うことは禁止されていたかもしれない。それではその歌がどうして選ばれたのか?理由は簡単だ。担任S先生のお気に入りの歌だった・・そうに違いない。なぜなら何を歌うかは生徒でなく、いつも先生が独断で決めていたのだから。
S先生は数学担当でスパルタ教師だった。地元ではC中学にS先生あり、とまで言われるくらい厳しいことで有名だった。
その先生がある時、
「音楽とはどういうものかね?××クン」
と、女子で学年一番の優等生、P子を名指しして言った。
私は当てられなくてよかったと安堵の気持ちではあったが、自分なりに「音楽とは奏でるものである」という答えを、頭の中の黒板に描き出していた。多少なりともピアノを弾きかじっていたせいで、即座に音楽を能動的な行為ととらえたのかもしれなかった。
しかしP子の答えは違っていた。彼女は
「音楽とは、聞くものです」
と迷いもなく答えたのだ。
先生はP子の答えにいいとも悪いとも言わず、他の何人かに同じ質問を繰り返した。
当てられた子はP子と同じように「聞くものです」とか、ちょっと気の利いたZ君は「鑑賞するものです」と答えたのだが、どうしたわけか音楽を受動的に捉えた答えばかりだった。みんな優等生の自信満々な答えに追随していたのかもしれなかった。
その時先生は、がっかりしつつも半ば予想したような表情でこう言った。
「おまえらは貧しい。音楽とは文字通り音を楽しむことだ。すなわち聞くのもよいが、下手でも自分で楽器を演奏したり、歌を歌うことが大切である…」と。
私はこの時ほど“何でこういう時に私を当ててくれないの!”と思ったことはなかった。
数学では当ててくれるなと小さくなっていたけれど、この時ばかりは、当てられれば先生の求める答えが一発で披露できたのに…と、出番をくじかれたようでくやしかった。
振り返ってみれば、S先生は勉強だけでなく、情操面やスポーツにおいても大変厳しい人だった。だから先生は人生勉強だけじゃないんだぞ、という人生の豊かさみたいなことをガリ勉どもに伝えたかったのかもしれない。
…私は、S先生お気に入りの「川は流れる」の古くさいイントロを聞きながら、「下手だっていいよね、歌うことが大事なんだよね」と、弁解がましく思いながらカラオケのマイクを握りしめていた。
KEI
病葉を今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
黄昏の 水のまぶしさ…
私の通っていた中学では帰りのホームルームの時間に毎日歌を歌って一日を締めくくっていた。歌は月ごとに代わり、模造紙に大きな文字で書かれた歌詞を見ながら、クラス一同がアカペラで斉唱していた。今考えればどうやって音程をあわせていたのかも不思議で、それを想像するとなにやらお笑いである。
そんな純粋無垢な中学生が、学校で堂々と歌う歌としては「川は流れる」はあまりにも渋く無常な歌詞ではあるのだが、それがなぜか今月の歌のひとつだった。しかも私は、数ある今月の歌の中でこの歌しか記憶に残っていないのだ。
「わくら葉を今日も浮かべて…」で始まるこの歌の、「わくら葉」はその時初めて知った言葉だが、こんな詩的な言葉を日常会話の中で使うことはないし、おそらくこの先もなさそうに思う。
「川は流れる」はその当時巷で流行っていた歌というわけではなかった。流行歌であればむしろ学校で歌うことは禁止されていたかもしれない。それではその歌がどうして選ばれたのか?理由は簡単だ。担任S先生のお気に入りの歌だった・・そうに違いない。なぜなら何を歌うかは生徒でなく、いつも先生が独断で決めていたのだから。
S先生は数学担当でスパルタ教師だった。地元ではC中学にS先生あり、とまで言われるくらい厳しいことで有名だった。
その先生がある時、
「音楽とはどういうものかね?××クン」
と、女子で学年一番の優等生、P子を名指しして言った。
私は当てられなくてよかったと安堵の気持ちではあったが、自分なりに「音楽とは奏でるものである」という答えを、頭の中の黒板に描き出していた。多少なりともピアノを弾きかじっていたせいで、即座に音楽を能動的な行為ととらえたのかもしれなかった。
しかしP子の答えは違っていた。彼女は
「音楽とは、聞くものです」
と迷いもなく答えたのだ。
先生はP子の答えにいいとも悪いとも言わず、他の何人かに同じ質問を繰り返した。
当てられた子はP子と同じように「聞くものです」とか、ちょっと気の利いたZ君は「鑑賞するものです」と答えたのだが、どうしたわけか音楽を受動的に捉えた答えばかりだった。みんな優等生の自信満々な答えに追随していたのかもしれなかった。
その時先生は、がっかりしつつも半ば予想したような表情でこう言った。
「おまえらは貧しい。音楽とは文字通り音を楽しむことだ。すなわち聞くのもよいが、下手でも自分で楽器を演奏したり、歌を歌うことが大切である…」と。
私はこの時ほど“何でこういう時に私を当ててくれないの!”と思ったことはなかった。
数学では当ててくれるなと小さくなっていたけれど、この時ばかりは、当てられれば先生の求める答えが一発で披露できたのに…と、出番をくじかれたようでくやしかった。
振り返ってみれば、S先生は勉強だけでなく、情操面やスポーツにおいても大変厳しい人だった。だから先生は人生勉強だけじゃないんだぞ、という人生の豊かさみたいなことをガリ勉どもに伝えたかったのかもしれない。
…私は、S先生お気に入りの「川は流れる」の古くさいイントロを聞きながら、「下手だっていいよね、歌うことが大事なんだよね」と、弁解がましく思いながらカラオケのマイクを握りしめていた。
KEI
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| 2007-03-16 13:19
| Essay