2006年 06月 01日
気球に乗った伯母
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先週、伯母が亡くなった。
伯母は私とは直接血のつながりはないが、画家であった母方の叔父の連れ合いである。彼女も画家だったので、昔の言い方をすれば「職業婦人」であり、そういう女性としての生き方は私にとって少なからず興味をそそられるものがあった。
伯父とは若い頃絵を学ぶ同志として知り合い、結ばれたようだ。
伯母は少女がそのまま大人になり、さらにおばあさんになったような人で、そのキャラクターが反映されたように、ナイーブペインティングといわれる類の絵を描いていた。
伯母の絵には必ず空が描かれ、空の真ん中には気球が浮いている。そこには遙か遠くへ行ってみたくなるような空間が広がっていた。
最期は、コレクションのフランス人形やお気に入りの物に囲まれて、静かに日常生活の中で息を引き取ったらしい。
伯母一家(伯父一家といった方が正しいのだろうが、あえて)のライフスタイルは、幼い私にとって物珍しいことだらけだった。
昔住んでいた代々木の家は、家こそ普通の作りだったが、玄関扉を開けるといきなりアグリッパの首や大顔面などの石膏像が並んでいて、大きなオレンジ色の巻き貝の貝殻や、鉄のオブジェのようなものも転がっていた。
画塾を開いていたということもあるが、何ともいえない芸術家の匂いのする家だった。そもそも代々木というところからして当時としては芸術家らしい。
ダイニングテーブルの上には商売道具の絵の具やパレットが散らかり、その傍らには、あたかもセザンヌの食卓のように、篭に盛られた果物が置かれていた。
ランチタイムとなると、当時まだ珍しかったサラミソーセージやピクルスがテーブルに並び、こんな物が日本にあったのか?と思われるジンギスカン鍋なんかも飛び出してくるおもしろさだった。
車はルノー、音楽はシャンソンと、全てにおいて伯母たちの暮らしは、当時の日本の画家が憧れたように、フランス風のスタイルだった。1960年代のことだ。
その後、一家は何を思ったのか、代々木のアトリエから茅ヶ崎の海の近くの家へ引っ越していった。
どこでどうやって見つけたのか、セカンドハウスのような開放的なその家は、それはそれで素敵だった。
海岸に打ち寄せられた流木のかけらが、台所の窓の面格子にたくさん打ち付けてあり、それが海の暮らしを物語っていた。
食卓に並ぶ料理も、ジンギスカンから海の幸へと変わり、私たちが訪ねると叔父は近くの市場で新鮮な魚を買ってきて、さばいて振舞ってくれた。
そして、海辺の家に引っ越して何より一番の出来事は、犬を飼い始めたことだった。
「もしかしたら、犬を飼いたくてここに移り住んだのかもしれない」
私は密かにそう思った。
海岸で犬と戯れる、きっとそんな暮らしをイメージしていたのだろう。
犬は、これまた当時珍しかったダックスフンドで、名前は「ドガ」だ。
伯母はドガの絵が好きだったのだろうか?
私は、
「ドガ!」
という伯母の呼び声を聞く度に、踊り子を想像した。
それ以来、ダックスフンドの「ドガ」は伯母の絵の中に度々登場するようになり、大きくなった従兄弟(伯母の息子)に変わって一家の中心となっていった。
月日は流れ、子供だった従兄弟と私はいい年のおじさん、おばさんになり、伯父も10年ほど前にあっけなく亡くなった。
伯父の死後、伯母は荒れていたようだ。
従兄弟から漏れ聞く伯母の晩年のわがままぶりも目に見えるような気がする。
決して理性的な人ではないからだ。そこが彼女のよさでもあるが、周囲の人間はさぞかし手を焼いたことだろう。
伯母はいつも髪をシニヨンにし、ブルガリアの少女のようなスモックのブラウスやアンティークの装身具を身につけていた。
ずっと以前に、パリの街角で和服を着てにこやかに笑っている写真を見たことがある。
そこには、普段は滅多に着ることのない和服をわざわざ携え、異国の風景を背景にして装った伯母のオシャレ感と、紛れもない日本人女性としてのアイデンティティーとが写っていた。
私はその写真を手にして、
「この人っていつも人生を演出しているんだな」
と、感じたものだ。
そして、日本ではシャンソンなのに、パリでは着物といった不思議なギャップも理解できたような気がした。
そんなかわいらしい伯母。彼女はもういない。
伯母は彼女の絵の中の気球に乗って、遠くへ旅立ったのだ。
おそらく今頃天国で、伯父と「ドガ」に巡り会い、にこやかに微笑んでいることだろう。
KEI
伯母は私とは直接血のつながりはないが、画家であった母方の叔父の連れ合いである。彼女も画家だったので、昔の言い方をすれば「職業婦人」であり、そういう女性としての生き方は私にとって少なからず興味をそそられるものがあった。
伯父とは若い頃絵を学ぶ同志として知り合い、結ばれたようだ。
伯母は少女がそのまま大人になり、さらにおばあさんになったような人で、そのキャラクターが反映されたように、ナイーブペインティングといわれる類の絵を描いていた。
伯母の絵には必ず空が描かれ、空の真ん中には気球が浮いている。そこには遙か遠くへ行ってみたくなるような空間が広がっていた。
最期は、コレクションのフランス人形やお気に入りの物に囲まれて、静かに日常生活の中で息を引き取ったらしい。
伯母一家(伯父一家といった方が正しいのだろうが、あえて)のライフスタイルは、幼い私にとって物珍しいことだらけだった。
昔住んでいた代々木の家は、家こそ普通の作りだったが、玄関扉を開けるといきなりアグリッパの首や大顔面などの石膏像が並んでいて、大きなオレンジ色の巻き貝の貝殻や、鉄のオブジェのようなものも転がっていた。
画塾を開いていたということもあるが、何ともいえない芸術家の匂いのする家だった。そもそも代々木というところからして当時としては芸術家らしい。
ダイニングテーブルの上には商売道具の絵の具やパレットが散らかり、その傍らには、あたかもセザンヌの食卓のように、篭に盛られた果物が置かれていた。
ランチタイムとなると、当時まだ珍しかったサラミソーセージやピクルスがテーブルに並び、こんな物が日本にあったのか?と思われるジンギスカン鍋なんかも飛び出してくるおもしろさだった。
車はルノー、音楽はシャンソンと、全てにおいて伯母たちの暮らしは、当時の日本の画家が憧れたように、フランス風のスタイルだった。1960年代のことだ。
その後、一家は何を思ったのか、代々木のアトリエから茅ヶ崎の海の近くの家へ引っ越していった。
どこでどうやって見つけたのか、セカンドハウスのような開放的なその家は、それはそれで素敵だった。
海岸に打ち寄せられた流木のかけらが、台所の窓の面格子にたくさん打ち付けてあり、それが海の暮らしを物語っていた。
食卓に並ぶ料理も、ジンギスカンから海の幸へと変わり、私たちが訪ねると叔父は近くの市場で新鮮な魚を買ってきて、さばいて振舞ってくれた。
そして、海辺の家に引っ越して何より一番の出来事は、犬を飼い始めたことだった。
「もしかしたら、犬を飼いたくてここに移り住んだのかもしれない」
私は密かにそう思った。
海岸で犬と戯れる、きっとそんな暮らしをイメージしていたのだろう。
犬は、これまた当時珍しかったダックスフンドで、名前は「ドガ」だ。
伯母はドガの絵が好きだったのだろうか?
私は、
「ドガ!」
という伯母の呼び声を聞く度に、踊り子を想像した。
それ以来、ダックスフンドの「ドガ」は伯母の絵の中に度々登場するようになり、大きくなった従兄弟(伯母の息子)に変わって一家の中心となっていった。
月日は流れ、子供だった従兄弟と私はいい年のおじさん、おばさんになり、伯父も10年ほど前にあっけなく亡くなった。
伯父の死後、伯母は荒れていたようだ。
従兄弟から漏れ聞く伯母の晩年のわがままぶりも目に見えるような気がする。
決して理性的な人ではないからだ。そこが彼女のよさでもあるが、周囲の人間はさぞかし手を焼いたことだろう。
伯母はいつも髪をシニヨンにし、ブルガリアの少女のようなスモックのブラウスやアンティークの装身具を身につけていた。
ずっと以前に、パリの街角で和服を着てにこやかに笑っている写真を見たことがある。
そこには、普段は滅多に着ることのない和服をわざわざ携え、異国の風景を背景にして装った伯母のオシャレ感と、紛れもない日本人女性としてのアイデンティティーとが写っていた。
私はその写真を手にして、
「この人っていつも人生を演出しているんだな」
と、感じたものだ。
そして、日本ではシャンソンなのに、パリでは着物といった不思議なギャップも理解できたような気がした。
そんなかわいらしい伯母。彼女はもういない。
伯母は彼女の絵の中の気球に乗って、遠くへ旅立ったのだ。
おそらく今頃天国で、伯父と「ドガ」に巡り会い、にこやかに微笑んでいることだろう。
KEI
by kmd-design
| 2006-06-01 10:19
| Essay