2013年 08月 05日
日常はドラマだ…アントニオ・ロペスの視点
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その関係からかでしょう。現在は、現代スペインのリアリズムの作家アントニオ・ロペスの展覧会が開催されています。
実は私、アントニオ・ロペスについては今までまったく無知でした.
ロペス?ハテ?サッカー選手?ってな具合です。芸術の国スペインの巨匠だというのに。
さて展覧会場では、作品数こそ多くはないものの、マドリッドの風景、身の回りの空間、家族、植物、そして人体の立体像と、大まかにいくつかのシリーズで構成されています。驚くことにそれらの作品の写実力は平面立体を問わず突き抜けています。克明だからすごい、とかそんなレベルはとうに超えた神々しさです。
たとえば、「マドリッド」の街を描いた風景画は、どこかの屋上から見た想定ですが、とても大きな作品で、前に立つと今まさに自分の目の前にマドリッドが広がっているかのように感じられます。遠くに響く喧騒や土ぼこりのにおいさえ伝わってくるような。
近寄って見れば、キャンバスのどこからどこまで細密な描写というのでなく、場所によって手の入れようが違う。そこが写真とは異なる肉筆の妙味で、ざっくり描かれている部分と克明に描かれたところのバランスに作者のセンスを感じます。
マドリッド大通りを描いた「グランビア」は、小さい作品ですが、通りに沿って建ち並ぶ歴史ある建物群を描きこむ一方、手前には道路の白線というそっけないオブジェクトを描いています。驚くことに道路は画面の下半分の面積を占めていて、ロペスは伝統ある建物とトラフィックペイントという現代の道路事情を同じ目線で同じウエイトで持ってきているのです。
リアリズムだから当然といえば当然ですが、ふだん目に映っているのに頭の中で除外しているオブジェクトが堂々と幅をきかせてくる。ここがミソであり、魅力です。
「マドリッド」にしても「グランビア」にしても、ロペスは絵画の広さと奥行き感を描くために、自分の立ち位置にいちばん近いオブジェクトを大事にとらえて、手前と遠くのものの違いをダイナミックな対比で表しています。
「パースペクティブってこんなにもドラマチックだったの!」
思わずため息が出ます。
ロペスの手にかかると、日常の何気ない風景はどれもこれもドラマになってしまうのです。
西洋絵画の特徴でもあるパースペクティブは、描いている本人が中心に世界が展開している。だから見ると絵の中に自分もいるみたいに感じられますが、たとえば日本画だったら手前をカットして中距離から先を描くかもしれない。東山魁夷の絵を例にとっても、自分が中心というよりは、一歩引いて客観的に「ある情景」を描いている。図案的ともいえますね。
中で私の一番のお気に入りは「バスルーム」という作品でした。
これは鉛筆だけで書かれているので、ロペスの類まれな描写力を堪能することができますが、それはさておいても、選んだテーマの面白さ、見過ごしてきた日常の中の意外性、思い切り大胆に縦長に切り取った画面構成など、その時作家が感じたであろう新しいエッセンスが作品の中に凝縮されており魅せられました。
先週Eテレの日曜美術館で紹介されていましたが、世界中の画学生が集まるロペスのワークショップで、彼はひとりの青年に向かって次のようにアドバイスしていました。
「一つの画面でいろいろなものを描こうとするとかえって絵が平凡になってしまう」、と。
確かにそうですね。自分がどこへ向かうのか、模索はあるにせよ自分なりの「欲しい」イメージの掘り下げがないと個性や焦点がぼやけてしまう。
そして続けて言います。
「とにかく観察しまくれ」、と。
モチーフを何にするか、どう描くかなど、ひとつひとつの局面に対し、何を拾い上げ、何を捨てるかをはっきりさせるってことですよね。そして自分の目を頼りにしっかり観察することで、新しい世界が開けるというものでしょう。
ロペスよ、出会えてよかった。(出会ったのは作品だけですけどね)
私は、真摯なまなざしロペスの虜となりました。
そうです。間違ってもサッカー選手だなんて、二度と言いませんとも!
KEI
by kmd-design
| 2013-08-05 09:55
| Essay