母方の祖父の話である。
私の祖父は、広島の高等師範学校を出て教師になり、恩師とともに朝鮮半島へ渡った。京城(ソウル)を始め、大田、新義州(現在の北朝鮮エリア)などいくつかの地域の旧制中学に赴任し、最後の頃は校長だったらしい。
祖父がなぜ教師を目指したのかは不明だが、埼玉の所沢の百姓の家の出身だったから後を継ぐのが嫌だったのかもしれない。いずれにしろ若い時から実家を離れ、教師になってからも意気揚々と開拓者精神で外地に赴いたのだろう。
最初の妻(私の祖母)との間に4人の子どもを設け、彼女が若くして結核で他界した後、恩師の娘と再婚した。
戦後、引き上げてきてからは実弟が跡を継いだ所沢の実家には戻らず、縁もゆかりもない(と思われる)地域に土地を求め、一転、研磨剤の工場を始めた。
以上は、ほとんど母からの聞きかじりだから違う部分もあるかもしれないが、結構チャレンジングな人ではあると思う。
私の知っている晩年の祖父は、いつも辞書を傍らに置き、書き物をしたり、孫が来ていようとも相手をするわけでもなく、仕事に勤しんだり、畑仕事をしたり、友人と何時間も囲碁に興じたりするような人だった。決して愛想よく接したり、時間を割いて遊んでくれたりするような人ではなかったが、さりとて怖い存在ではなかった。どちらかというとおんな子どもと自分は別、という雰囲気があった。
祖父の家の床の間には掛け軸と鎧兜がかざってあり、なんだか勇ましくも怖い感じがした。そして、私が一番面白いなと感じていたのは、「普請道楽」ともいえる点で、住居としていた古家を何度も改築したことである。
たまに訪れると部屋の配置がガラッと変わって、玄関や台所の位置が真反対になっていたりして面食らったが、そういった変化が私は好きで楽しみでもあった。
広大な祖父宅の敷地には、古家の他に、工場の建物や、事務所、工場で働く工員たちのアパートなどが建っていて、畑や釣り堀のような巨大な池、大きな犬小屋、敷地内には用水路も通っていて遊ぶには事欠かなかった。そして、晩年には、古い木造家屋を敷地の隅の方に曳家して、空いたところに3階建てのコンクリートの家(写真の奥の建物)を建てた。当時コンクリート造の住宅はかなりめずらしく、インテリアにはガラスブロックの間仕切りもあるようなそれなりに立派な家だった。
1階部分は倉庫のような場所だったが、そこを祖父は「石の学校」と銘打って、様々な石を盆栽のように仕立て、それぞれに題目をつけ、解説を添えていた。例えば石がひとつで孤独の石、とか、ふたつがくっついていると寄り添う石など。尖った石や丸い石、つるつるの石、実に様々な石があり、それぞれの石の情景をたとえてそこから人生教訓を引き出し語っていた。
研磨剤の材料は石だが、石好きだから研磨剤を作ったのか、研磨剤工場を始めてから石に惹かれていったのか、そこのところは全くわからないが、その頃人生の集大成のように「石と人生」という本を執筆した。
そんな祖父の元に、私が二十歳になったある日、成人の報告をしに行ったことがある。いつもは正月や夏休みなどに親たちと一緒の訪問だったが、その時は私と弟の二人だけだった。
母が振袖を着せてくれ、それを祖父母に見せに行け、ということでわざわざ遠いところを会いに行ったのだ。
晴れ着なんて一生に一度のことだから、さすがの祖父も少しは褒めてくれるか、目を細めてくれるかと思いきや、相変わらずそんなそぶりは微塵もなく、ひととおり世間話をした後、突然私に向かって、
「ところで、お前は二十歳にもなったのだから、男を見る目はあるんだろうな」
と確認し、念押しするように真顔で言ったのだ。
「えっ?」
私は返事に窮し「あります」とも「いやまだまだです」とも言えず、唖然としていた。
そして、明治生まれの男の発想とはそういうものなのかと、突き付けられたあまりに生々しい言葉に衝撃を受けつつ、心の中で、
「じいさん、めでたく成人した孫娘が来たのに、かける言葉ってそれだけですか?」
「人生そこがポイントなんですか?」
と、問いただしたく思っていた。
その言葉が本音であれば(本音なのだろうが)、私が今まで勉強したり大学に入るために苦労したりしたのはいったい何だったのだろう。どこかで今までやってきたことを否定されたようで、単純に「女の人生男次第」と言わんばかりの一言に素直に頷けない。
良く解釈すれば、
「結婚相手次第で幸せにも不幸にもなる。だからしっかり品定めせよ」
ということだろうし、嫁入り前というタイミングで正論には違いないが、現代の感覚では、封建的でセクハラとしか言いようがない。
まあ、実の祖父だから許すけど。
それから数年後、祖父は私の結婚相手を見ることもなく亡くなった。
説教好きな祖父から孫娘へのはなむけの言葉は、後にも先にもたったこの一言であった。