アトランダムカフェ
2023-11-21T13:58:47+09:00
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サインデザイナー宮崎桂のブログ
Excite Blog
はなむけの言葉
http://kmddesign.exblog.jp/33585462/
2023-11-10T13:21:00+09:00
2023-11-13T13:05:38+09:00
2023-11-10T13:01:52+09:00
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未分類
母方の祖父の話である。
私の祖父は、広島の高等師範学校を出て教師になり、恩師とともに朝鮮半島へ渡った。京城(ソウル)を始め、大田、新義州(現在の北朝鮮エリア)などいくつかの地域の旧制中学に赴任し、最後の頃は校長だったらしい。祖父がなぜ教師を目指したのかは不明だが、埼玉の所沢の百姓の家の出身だったから後を継ぐのが嫌だったのかもしれない。いずれにしろ若い時から実家を離れ、教師になってからも意気揚々と開拓者精神で外地に赴いたのだろう。最初の妻(私の祖母)との間に4人の子どもを設け、彼女が若くして結核で他界した後、恩師の娘と再婚した。 戦後、引き上げてきてからは実弟が跡を継いだ所沢の実家には戻らず、縁もゆかりもない(と思われる)地域に土地を求め、一転、研磨剤の工場を始めた。 以上は、ほとんど母からの聞きかじりだから違う部分もあるかもしれないが、結構チャレンジングな人ではあると思う。
私の知っている晩年の祖父は、いつも辞書を傍らに置き、書き物をしたり、孫が来ていようとも相手をするわけでもなく、仕事に勤しんだり、畑仕事をしたり、友人と何時間も囲碁に興じたりするような人だった。決して愛想よく接したり、時間を割いて遊んでくれたりするような人ではなかったが、さりとて怖い存在ではなかった。どちらかというとおんな子どもと自分は別、という雰囲気があった。祖父の家の床の間には掛け軸と鎧兜がかざってあり、なんだか勇ましくも怖い感じがした。そして、私が一番面白いなと感じていたのは、「普請道楽」ともいえる点で、住居としていた古家を何度も改築したことである。 たまに訪れると部屋の配置がガラッと変わって、玄関や台所の位置が真反対になっていたりして面食らったが、そういった変化が私は好きで楽しみでもあった。 広大な祖父宅の敷地には、古家の他に、工場の建物や、事務所、工場で働く工員たちのアパートなどが建っていて、畑や釣り堀のような巨大な池、大きな犬小屋、敷地内には用水路も通っていて遊ぶには事欠かなかった。そして、晩年には、古い木造家屋を敷地の隅の方に曳家して、空いたところに3階建てのコンクリートの家(写真の奥の建物)を建てた。当時コンクリート造の住宅はかなりめずらしく、インテリアにはガラスブロックの間仕切りもあるようなそれなりに立派な家だった。 1階部分は倉庫のような場所だったが、そこを祖父は「石の学校」と銘打って、様々な石を盆栽のように仕立て、それぞれに題目をつけ、解説を添えていた。例えば石がひとつで孤独の石、とか、ふたつがくっついていると寄り添う石など。尖った石や丸い石、つるつるの石、実に様々な石があり、それぞれの石の情景をたとえてそこから人生教訓を引き出し語っていた。 研磨剤の材料は石だが、石好きだから研磨剤を作ったのか、研磨剤工場を始めてから石に惹かれていったのか、そこのところは全くわからないが、その頃人生の集大成のように「石と人生」という本を執筆した。
そんな祖父の元に、私が二十歳になったある日、成人の報告をしに行ったことがある。いつもは正月や夏休みなどに親たちと一緒の訪問だったが、その時は私と弟の二人だけだった。 母が振袖を着せてくれ、それを祖父母に見せに行け、ということでわざわざ遠いところを会いに行ったのだ。 晴れ着なんて一生に一度のことだから、さすがの祖父も少しは褒めてくれるか、目を細めてくれるかと思いきや、相変わらずそんなそぶりは微塵もなく、ひととおり世間話をした後、突然私に向かって、 「ところで、お前は二十歳にもなったのだから、男を見る目はあるんだろうな」 と確認し、念押しするように真顔で言ったのだ。 「えっ?」 私は返事に窮し「あります」とも「いやまだまだです」とも言えず、唖然としていた。 そして、明治生まれの男の発想とはそういうものなのかと、突き付けられたあまりに生々しい言葉に衝撃を受けつつ、心の中で、 「じいさん、めでたく成人した孫娘が来たのに、かける言葉ってそれだけですか?」 「人生そこがポイントなんですか?」 と、問いただしたく思っていた。 その言葉が本音であれば(本音なのだろうが)、私が今まで勉強したり大学に入るために苦労したりしたのはいったい何だったのだろう。どこかで今までやってきたことを否定されたようで、単純に「女の人生男次第」と言わんばかりの一言に素直に頷けない。 良く解釈すれば、 「結婚相手次第で幸せにも不幸にもなる。だからしっかり品定めせよ」 ということだろうし、嫁入り前というタイミングで正論には違いないが、現代の感覚では、封建的でセクハラとしか言いようがない。 まあ、実の祖父だから許すけど。
それから数年後、祖父は私の結婚相手を見ることもなく亡くなった。 説教好きな祖父から孫娘へのはなむけの言葉は、後にも先にもたったこの一言であった。
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失敗なくして成功なし
http://kmddesign.exblog.jp/32720856/
2022-06-27T18:16:00+09:00
2022-06-28T10:40:33+09:00
2022-06-27T18:16:29+09:00
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Essay
若い時は少なからず失敗を経験しておいた方がいい。言うまでもなく失敗して初めて人は学ぶからである。誰しもあるだろう若気の至り、私がまだ駆け出しの頃の話である。 今でこそ一端の色彩計画家のような顔をしているが、こうした仕事に初めて関わったのは20代の修業時代。テキスタイルデザイナーの師匠が自身のスタジオを建てるにあたり、私は壁面収納や鉄骨階段などの塗装部分の彩色を任された。その時はどこからどうしていいかもわからずおろおろし、ただただ師匠のイメージを具現化しようと必死だった。元々心の思うまま、やりたいように感性で色を決めていくのが師匠のスタイルだったのに加え、そこは自身のスタジオ、どこをどうしようとひたすらに自由だった。せっかくの機会、楽しめばいいものを、色彩計画に論理的アプローチやセオリーを求めていた当時の私にとっては、今ひとつ掴みどころがないように感じていた。
「カラリスト」、当時の日本では耳慣れないその職業を知ったのはこの時である。師匠によれば、フランスのカラリスト(色彩計画研究家)であるフィリップ・ランクロは、街の色彩を調査し、さまざまな建築、たとえば工場や駐車場の色彩計画や団地などの環境色彩を手掛けているという。具体的には工場の機械などに彩色をして、働く人のモチベーションをアップさせる環境作りをしたり、低所得者層が住む画一的な団地の建物を彩色することによりその価値を高め、さらには美しく治安のよい街づくりを実現したりするとのこと。なるほどさすが芸術の国フランス!と感心すると同時に、取り立てて人々が気に留めないようなマイナーな場所に着目し、そこに色彩デザインでアプローチするという手法に大いに興味を持った。
ところで、フランス、色彩といってもうひとつ連想されるのはパリのポンピドゥーセンターという美術館である。ポンピドゥーとはフランスの第19代大統領、ジョルジュ・ポンピドゥーのことで、彼が在任時代に計画されたことがその名の由来である。そこは同市内のルーブルやオルセー、オランジェリーといった従来型の古典や近代アートコレクションとは異なり、現代美術専門の美術館となっているのだが、その誕生には第二次世界大戦が大きく関係している。ヨーロッパでの戦争が終わると芸術家たちは荒廃したその地を抜け出し、新天地アメリカへ移住を始めた。その後アメリカでは、ポップアートに代表されるマスメディアを取り込んだ絵画や、既製品を用いた彫刻など、アートの概念が大きく変化し、その発信元であるニューヨークが一躍脚光を浴びることとなる。そう、世界のアートの中心はパリからニューヨークへ移ってしまったのだ。焦りを感じたフランス政府はその称号を奪還すべく新たな「現代」美術館をパリに計画、これがポンピドゥーセンター誕生のいきさつである。
そしてこのポンピドゥーセンター、新築の建物についても大いに注目の的となった。なぜならこの建築の設計競技で勝利したのは、当時30代のレンゾ・ピアノ(イタリア人)とリチャード・ロジャース(イギリス人)という2人の若き建築家だったからである。彼らの設計はそれまでの建築と全く異なっていた。具体的には、建物の内側に存在するのが当たり前とされていたエレベーターやエスカレーターなどの昇降設備や、配管や機器などのコア部をすべて建物の外側に露出し、あえて見える意匠としたこと。加えて展示室内に柱を設けず、構造体を外側にして展示室を浮かせる吊り橋のような構造としたことである。これが1977年当時どれだけ革新的な建築であったかは想像に難くない。
建物外部のダクト類は、それぞれ動力、空調、衛生など役割の異なる設備機器ごとに赤、緑、青、白といった配色がなされているのだが、それもこの建築のコンセプトをより強調した表現となっている。ただこのカラフルで機械のような外観は、当時のパリ市民にすんなり受け入れられたわけではなかった。伝統的な街並みにまるでそぐわないと反発も大きかったようだが、それでもこうしたアバンギャルドな建築が実現したのは、やはり政府の意向が強かったからであろう。
長々書いてしまったが、ここからが本題の失敗談である。
月日が流れ師匠の下から独立した私はまもなく、ある企業の自社ビルの色彩計画を行うチャンスを得た。この時は仕事というよりまだ建築家のお手伝いという立場ではあったのだが、とにもかくにも自分の考えを表現できるチャンスと、意気揚々としていた。と言っても、ビル自体のテーマは色彩ではなく、大理石や金属が用いられた要するに自社ビルらしい立派な仕上げで、そうしたハイライトになる箇所に私の出番は全くなかったのだが、代わりにトイレや地下の機械室の中などの裏方はどのようにしてもよいと、それらを任せてもらえたのだった。通常こういった場所や設備機器の色は何も指示しなければ、ベージュもしくはクレイのような色であり、面白くもなんともない。そこで思い出したのが「ランクロ」のバックヤードにおける色彩計画、そしてポンピドゥーセンターの見せる設備機器の配色だった。そのビルはそこそこ大きく、地下に設置される設備機器も相当な数になる。そこでさっそくそれらを機能別に、空調関係は空気をイメージする水色、衛生関係は青緑、そして動力はパワーとエネルギーを感じる暖色系のピンク色とし、それらすべてが混在しても美しく見える配色とした。マイナーな場所を活性化させる方針はランクロを、具体的色彩計画の手法はポンピドゥーセンターをお手本としたのである。
さて、その出来上がりは…。
結論から言うと、私の目論見は見事に外れた。室内には3色のハーモニーがきれいに広がると思いきや、実際は空調や衛生に関する機器は数えるほどで、大半を電気関係の機器が埋め尽くす空間だったのだ。したがって扉を開けると、何とそこはピンク色の洪水となっていた…。
「やってしまった!穴があったら入りたい…!」他の色ならともかくよりによってピンクとは!今思えば設備機器がどこにどう配置されるかも把握していなかったとは大失態である。まぁ、場所が場所だけに笑って許されるようなところではあるが、何とも頭でっかちというか勇み足というか…。
幸か不幸か数十年の時を経たそのビルは取り壊され、私の失敗は表舞台に出ることなく闇から闇に葬られた(笑)。だからこそこうしてネタにもできるが、今でもあの光景を思い出すと、自分の仕事の拙さに苦笑せずにはいられない。
公益社団法人日本サイン協会発行 機関誌「NEOS」 サインとデザインのムダ話より
KEI
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藤原てい『流れる星は生きている』
http://kmddesign.exblog.jp/32559478/
2022-01-27T13:04:00+09:00
2022-02-18T13:04:37+09:00
2022-01-27T13:04:30+09:00
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Book & Cinema
終戦時、満州からの引き揚げを自身の体験をもとに綴った長編。若い母親と乳飲み子を含む三人の子どもが、満州から朝鮮を経て日本へ帰り着くまでの壮絶な日々が克明に記されている。特に子どもの様子は読むのがつらいほどだ。初版は昭和24年。
なぜこの本に行き当たったのか、といえばひと月ほど前、家の近くを歩いている際、とても感じの良い日本家屋に遭遇したことにある。大きなその屋敷は、吉村順三のような建築家によるものではないかと思われ、築後5、60年はゆうに経っているように見えた。表札には「藤原」の文字が。だがそもそもは誰が住んでいるかということより誰の設計か、という興味から、角地に建っているその家の敷地に沿ってずっと脇道に入って行った。すると母家とは別の棟に「公益財団法人新田次郎記念会」という表記と、「藤原正彦」という表札があり、どうやらここは新田次郎の家らしい、どうりで立派なわけだと納得。しかも藤原正彦ってあの藤原正彦なのか、と次々に疑問がわき、さっそくググると新田次郎と藤原正彦は親子であるということを知った。
新田次郎は私の中では、山岳小説家というイメージで、著名な『八甲田山死の彷徨』『孤高の人』くらいの知識しかないが、登山家というより気象庁(当時は観象台という)に勤務していたらしい。息子の藤原正彦にしても『若き数学者のアメリカ』とか『国家の品格』くらいしか知らなかった。そんな中で興味をひかれたのが、新田次郎夫人の藤原ていという人も作家であることで、私は彼らより女性作家であるていさんの方が気になり、代表作『流れる星は生きている』を読んでみたくなった。そこで、さっそく近くの本屋でメモした紙を見せて尋ねると、店員の女性は検索もせずすらすらと、
「藤原ていさんの『流れる星は生きている』ですね、ハイ、少々お待ちください」
と、思いのほかスムーズに所定の場所からその本を持ってきてくれたのだった。(本屋の女店員もなかなかのプロである。良く知っていてエライ)
発刊されてすでに70年以上経っているので本屋の店頭にはないだろうと決めつけていたが、実はかなり著名な本で文庫化もされている。しかも戦後すぐのベストセラーで、今でも読み続けられている超ロングセラーではないか。知らなかったのは私だけ?
と、いうわけで、通りがかりの一軒の住宅からこの本にたどり着いたのだが、この本に興味を持ったのにはもう一つ理由がある。実は私の母も引揚者であったからだ。藤原ていさんと違うのは、終戦を迎えたのが満州ではなく朝鮮の京城であったこと、年齢ももう少し若く未婚であったことだが、母の話によると、終戦時、兄と二人だけで日本へ引き上げてきたということだった。父親(私の祖父)は旧制中学の校長をしており、学校の後始末のためすぐに帰れないということで、まずは先に母と兄が親からお金を持たされ、大枚はたいて釜山から闇船に乗って山口県の先崎へたどり着いたという。今にして思えば無事でよかったと思う。(無事でなければ私の存在はないが)そんなことで少し母の体験と重なり実感がわいたのだ。
戦争とはイコール飢餓である、と思う。戦場で戦っている者だけでなく一般市民も、そしてまさにこの本にあるように敗戦の挙句引き上げてくるすべての人にとってもそれがどんなに大変だったことか。生きることは食べること。食べるものがないことほどつらいことはないだろう。思考も行動もメチャメチャになって挙句の果てに間違った行動に走る。戦争をしたがっている人は、イデオロギーとか理屈ではなく、まずは自らが野ざらしで限界まで断食してから物申して欲しい。
話を戻して、ていさんは帰国後、日常生活に復帰するのにかなりの時間を要したとのこと。人間死ぬ気になれば何でもできるとはいうものの体力の限界を超えて、おそらく気力だけで生き抜いたのだろうから当然かもしれない。ただ、驚くことに休養していた数年の間にこの本を書き上げたのだった。新田次郎より先に世に知られ、作家になったのだ。
そして私が気になった例の藤原邸だが、どうやらそこはこの本の印税で建てられたものらしい。彼女はどこまでも気丈で逞しい女性である。そして、底知れぬパワーに感動し、励まされた。
KEI
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いつでもお茶を
http://kmddesign.exblog.jp/31768408/
2020-10-08T16:00:00+09:00
2023-11-21T11:47:04+09:00
2020-10-08T16:00:16+09:00
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世界あっちこっち
上海の虹橋空港で帰国便の搭乗手続きをしようとしたら東京行きの飛行機の出発時間が大幅に遅れていることを告げられた。国際線で余裕を持って空港に来ているので、離陸までは6時間以上もある。全くツイてない。
中国系の航空会社であれば、2、3時間の遅れは日常茶飯事で驚きもしないが、今回はJAL便だからと高をくくっていたこともありかなり落胆した。しかも機内の座席モニターをあてにして読書用の本も持ち合わせておらず、待ち時間にSNSやニュースを見ようにも、中国国内だから見ることもできない。
突如生まれた膨大な空き時間をどうしたものかと思ったが、すでに空港に来てしまっているので、そのままチェックインを済ませ、ゲートに入ることにした。予定が早まることはないだろうが、何事も余裕があるに越したことはない。先日深センの空港で目当ての便を待っていたのだが、搭乗ゲートが変更になっていたことに直前まで気付かず、時間ギリギリであたふたしたことを思い出し、無理矢理自分を納得させたのだった。
さて、これからどうしようか。
搭乗ゲートに入って、とりあえずぶらぶらとフロアの端から端まで荷物を引きずりながら土産物屋を眺めて歩き、さらに大して興味もないのに商品をひとつひとつ眺めまわし、年代物の丸く乾燥したプーアル茶は欲しいけどやたら高いな、と中国の物価の高さに驚きながら、これなら帰国後ネットで探した方がまだ安いかも、などとケチなことを考えていた。
そうこうするうち昼になったので、渡されたミールクーポンを持ってレストランフロアへ移動し食事をとることにした。虹橋空港のターミナルビルは浦東のそれと比べると格段に小さく、レストランの数も少ない。とりあえずエスニック料理の店に入り、迷った挙句、海南鶏飯(シンガポールチキンライス)を注文した。それはごく普通に美味しかったが、ひとりで食べる時間は頑張っても30分、日本のようにお茶も出ないし、話し相手もいないので手持無沙汰でそそくさと店を後にした。
それからまた出発ゲートのベンチに腰掛け、ぼんやりと自分の前を通る人や、熱心に拭き掃除をしている清掃員を眺めているうちに、空港職員が通用口から度々出てきては、給湯器を利用していることに気付いた。
マイボトルを持ってお湯を注いでいるのだ。
給湯器はフロアの両端に一台ずつ備え付けてあるのだが、どちらの給湯器も乗客用であるにもかかわらず、オフィスエリアで働いている職員も利用しているらしい。そこに給湯器がないのだろうか?
中国と日本の空港が大きく違うのは、まさにこの給湯器が備わっていることで、ほとんどの中国人はマイボトル持参で給湯器(給茶機ではない)のお湯を入れて持ち歩く。これはエコの意味でもなかなか良い習慣だと思う。
中国人は冷たいものは飲まない、体を冷やすからだ。その代わり白湯や温かいお茶を好んで飲む。だからどこでも給湯器が備え付けてある。
お茶文化の中国では、度々お茶を飲む場面に出くわす。
たとえば企業の応接室などに通された時。そこには必ずお茶を入れる設備があって、彼らが言うところの「とびきり美味しいお茶」を客人のために目の前で淹れてくれるのだ。
もう少し詳しく説明をすると、応接のテーブルに水が出る蛇口が備えてあり、それはよくよく見ればテーブルの下のミネラルウォーターのタンクに繋がっているのだが、水をやかんに汲んでコンロで沸かす。次に、茶器セットの器全体に沸かしたお湯を注ぎ温め、その間に茶葉を入れた急須にお湯を注ぎ、一旦最初の湯を捨ててから、新たにお湯を注ぎ、数分してから、温めた湯飲みに順次回し入れる。これはちょっとした儀式である。
淹れたてのお茶は、お茶好きの私にとってはかなりうれしい。そして、彼ら自慢のさまざまなお茶は、それこそ香り、味、ともにとびきり美味しく、体にも良さそうだ。
こだわり派は、レストランでお茶を飲むときもマイ茶葉持参で、白湯だけをもらう。
そのように中国では、自分なりの美味しいお茶を知っていることは、社会的ステイタスのひとつのようにも思える。
お茶自慢は誠に健全で良い習慣だ。日本でも抹茶や煎茶など美味しいお茶はいろいろあるので、コーヒーだけでなくもっと日本茶を愛用し、普及させた方がいい気がする。
…と、空港のベンチに腰掛け、給湯器を利用する人を見ながらあれこれ思いにふけっているうちに、ふと自分もお茶が飲める状況にあることに気付いた。
手荷物の中に、昨日お土産にいただいた茶葉があったのだ。
「そうだ!今、ここで、お茶を淹れて飲んでみよう」
空港で手持ちの茶葉でお茶を淹れる、これは退屈しのぎにはもってこいの贅沢である。そこで、もう一度土産物屋に行き、水筒を探すも、今ひとつ気に入ったものがなく、それならと、給湯器の横に備え付けられた紙コップに直接茶葉を入れ、お湯を注ぎ飲むことにした。温かいお茶をこんな場所で飲むのはちょっとした中国人気分である。
以前中国人の友人に、水筒でお茶を飲む時口に入ってしまった茶葉はどうするのか、と私が常々感じていた疑問について尋ねたところ、ちょっと考えた末、「食べる」という答えをもらった。
日本人の私からすると予想外の答えだった。
そうなのだ。中国では、水筒の中で浮いた茶葉は、口から出したりせずに、少量であればそのまま気にせず食べてしまうらしい。
日本だったら、茶葉が出ないように細かい仕掛けを考えるとか、水筒用には必ずティーバッグを使うとか、やることがすべて繊細なのだが、茶葉が口の中に入っても食べてしまう、こういう大雑把なところが中国人の良さだな、と思いながら、郷に入っては郷に従えと、紙コップに浮かんだ茶葉はそのまま食べてしまうことにした。
KEI
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店名、つれづれなるままに
http://kmddesign.exblog.jp/31325566/
2020-08-18T17:01:00+09:00
2023-11-21T11:41:16+09:00
2020-08-18T17:01:29+09:00
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Essay
今はずいぶん少なくなった当て字の店名だが、私がよく行く地域にまさに当て字の典型のような「珈琲亭羅巣」という名の茶色い看板の店があり、そこを通りかかる度に無理やりすぎる読ませ方が気にかかっていた。「コーヒーテラス」と書けばさわやかなものを、テラスに漢字をあてるとまるで蜘蛛の巣かコウモリの巣みたいな巣窟が頭に浮かんでくる。「笑ゥせぇるすまん」の主人公、喪黒福造行きつけのBAR「魔の巣」のようなあやしさだ。漢字には意味や印象がつきまとう。
それとは逆に、日本語を外国語(アルファベット)に置き換えた例もある。先日、たまたま車で通りがかった知らない街で、パチンコ店らしい大規模な店舗の塔屋にDELDASという大きな文字看板を見かけた。一見、外国語かと思いきや、「デルダス」と音にしてみるとあまりに直接的な意味で思わず吹き出してしまった。これなどは日本語をアルファベット当て字にした傑作ではないか!
ところで、気にかかる店名で、私の住んでいる地域に面白い一角があるのでご紹介したい。
まずは、「ロダン」という名の理髪店である。すでにやっているのかいないのかもわからないほどさびれて、行く末もそう長くはなさそうであるが、開店当時はおそらくオシャレな店だったのだろう。「ロダン」という音の響きからどことなくダンディズムも感じるし、芸術家の名前をもってきたところからみても、ある意味美意識は高いともいえそうだ。理髪店には悪くない名前である。
そして、高貴?なロダンの右隣に構えているのが、全くの偶然ではあろうが、偉大な芸術家ピカソから名をとったスナックだ。スナック「ぴかそ」はロダンに負けず劣らず古くて、小さな店である。(そういえば昔、小さなスナックという歌がありましたっけ)
考えるに、「ぴかそ」という店名はかなり少ないのではないか。ルノアールやマチス、スーラなどに比べかなりポップな響きだからだ。それをあえて付けた背景には何があったのだろう。どうでもいいけれど気にかかる。
「ぴかそ」は夜、通りがかると、カラオケの賑やかな音が聞こえてくる場末のアットホームな店だ。以前、この店にタクシーで乗り付けた老人がいてびっくりしたことがあるが、さらに驚いたのは、足元もおぼつかない老人が扉を開けたとたんに中から、「キャー!○○さん、いらっしゃい♪」という女性の大合唱。こんなに歓迎されるんじゃお客もさぞかし嬉しいにちがいない、と、タクシー横付けの理由も大いに納得できたのだ。なじみ客とはありがたいもの。「ぴかそ」は案外、押さえるところは押さえて堅実に経営していることを知った。こうしてみると、繁盛とは店のセンスと全く関係なさそうで、店は客がつくる、と言っても過言ではなさそうだ。
さて、私が「ロダン」と「ぴかそ」のある街に引っ越してきてかれこれ20年以上になるが、ここへ来て長らく二軒だけだった一角に、全く思いもしない展開があった。ロダンの左隣に「ミロ」という名の居酒屋が現れたのだ。まさにこれは事件である。「ミロ」は、閉店放置された粗末な店舗を改装したチープな店で、カタカナで「ミロ」と書き入れた赤いガラスのブイが店の前にぶら下がっているのを見るに、センスがイマイチで、もしかして画家ミロから名前をとったものではないような気もしてくる。しかし、由来はどうあれ、この店名を発見した時私は「やったー!」と小躍りした。ロダン、ピカソに加え、ミロという三巨匠が隣り合ったからだ。こんな偶然そうはない。
そして、ここで話は終わると思いきや、実はまだどうでもいい話は続くのである。居酒屋ミロの開店より遅れること半年。今度は、ミロの左隣にいつの間にか店が開店していた。店名に敏感になっている私は、過大な期待を抱きつつ、名前を確かめるためにだけに用のない店舗に近寄っていくと、白くペイントされた木の看板に「ジョアン」というカタカナの文字が見てとれた。服飾雑貨の店らしい。
残念ながら芸術家の名前ではなかったことに落胆したのではあるが、別の意味で少し笑えた。なぜならジョアンとミロの二軒で、ジョアン・ミロ(ミロのフルネーム)と完結しているからだ。なるほどこう来たか!と感心さえしてしまった。果たしてジョアン店主は、右隣のミロを意識して付けたのだろうか。チャンスがあったら聞いてみたい。
店は目まぐるしく変わる。できたかと思えばなくなったり、あるいは居抜きで店名だけがいつの間にか変わっていたりと入れ替わりが激しい。聞くところによれば、店舗というのは開店後3年以内に80%が消えていくというのだから驚きである。閉店理由のひとつに店名や看板のデザインがあるとはあまり考えにくいが、最近では「いきなりステーキ」「変なホテル」のようにフレーズやタイトルでコンセプトを印象付けようという傾向や、「しょぼい喫茶店」のようなあえて自虐タイトルなど、注目度をあてにした店名がぽつぽつ見受けられる。だが、奇をてらえばてらうほど賞味期限は短いのではないか。
店名とは、まさにその時代が求めるキーワードである。時代背景を意識した店名を調べていくと何か発見がありそうな気がする。この後は、どのような感覚の店名が現われ、顧客を喜ばせてくれるのであろうか。全く人他人事であるがゆえ、大いに楽しみである。
(写真はあえて掲載せず、読者のみなさんの想像にお任せします)
KEI(日本サイン協会 雑誌NEOS掲載)
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手塩にかけた握り飯
http://kmddesign.exblog.jp/30900406/
2020-08-11T09:01:00+09:00
2020-09-03T15:54:02+09:00
2019-11-12T18:12:59+09:00
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Essay
ある日のホームルーム、担任が突然、「Y、お前は毎日弁当を持ってこないが、どうしてかわかっているのか?」と、聞いた。元々体が小さめで、中学生なのにどことなくおじいさんみたいな雰囲気のYは、いきなり自分のことを言われてびくびくしている。クラスのみんなは、おそらくYの家は八百屋なので朝早く忙しいから弁当を作ってもらえないのだろう、くらいにしか思っていなかった。しかし担任のS先生は何においても非常に厳しく、特に生活態度においては、本人だけでなく親のことまで注意するような人だった。先生は続けて、「おまえの親が弁当を作れないのは忙しいせいじゃない。愛情がないからだ」と、きっぱり言い放ったのだ。言われたYはもう顔が真っ赤になり、その場にいたたまれないような状態で縮こまってしまった。みんなは内心、(先生ちょっと言いすぎじゃない。Y君が悪いわけではないのにかわいそうだな)と、彼をかばう気持ちになっていた。先生は続けて持ち前の理論を述べた。「忙しいなら握り飯一個だっていいんだぞ。おまえらは弁当の栄養のことを考えたかもしれないが、栄養なんかは二の次だ。どんな弁当であってもそれが作れるか作れないかは愛情の問題である」みんなはどう思ったか知れないが、私は先生の言っていることは一理あるな、と心に刺さった。この後Yがどうなったかは記憶にはない。ただ、気の小さそうな子だったから、この顛末はおそらく親には言い出せなかっただろう。誰でも自分のことならまだしも親のことを責められるのはつらい。果たして、先生はYに愛情があったのだろうか。
ここで話は変わって、もし私が教師だったらどうするだろう、と考えてみる。まずは、行動に結びつくなんらかのきっかけが必要だ。Yを呼び、何気なく「君の家、炊飯器ある?」と聞いてみる。おそらくYは突然何を聞かれているのか訳がわからないだろうが、「あります」と、答えるに違いない。「お米を研いで、ご飯を炊くことはできるかな?」「…やったことない」「それじゃ、ご飯の炊き方を家の人に教えてもらって、炊いてみなさい。わかったね」「はい」翌日。「ご飯炊けた?」「炊けました」「よかったね。自分で炊いたご飯はおいしかっただろう。それじゃ、明日、炊いたご飯を、おにぎりみたいに丸めて学校に持っておいで」「はい」「やり方わかる?」「……」「炊けたご飯をまずお茶碗にとって丸くしてから、両手に塩を付けてにぎる。いいかな?」と、三角にぎりをやって見せる。またまた、翌日。今度は昼休みに、「おにぎりおいしかった?」と、聞いてみる。「はい、おいしかったです!」(ちょっとうれしそう)「握る時、手に塩をつけるとおいしいよね。塩は少なすぎても多すぎてもだめ。自分でやってみていい塩梅を見つけなさい」そして、手塩という言葉を紙に書く。Yはなんだかちんぷんかんぷんではあるが、先生が自分を気にかけてくれていることだけは感じとるだろう。さらに翌日は自分もおにぎりを作ってきて、Yを呼びおいしそうに食べる。ここである程度優秀な子であれば、手塩の意味を調べたり、おにぎりに具を入れたり、海苔で巻いたり、形を工夫したりだとかの多方面の発展が一気に広がるが、Yはそこまで気が回らない。というより、そもそも工夫や応用の概念がないだろう。だから毎日一歩ずつ、一歩ずつクリアできる階段を用意しなくてはならない。次の日は、梅干しを入れるとか、また次の日は海苔を巻くとか。亀の歩みのようにのろくとも。とにかくどんなおにぎりであろうともYにとって大事なことは、継続して作れるかどうかである。それから、2週間くらい目をかけてやり、継続することができるようになって初めて、Yが今まで続けられたことに対してめちゃくちゃ褒めまくる。そして、「君は、もう何でもできる中学生なのだから、自信を持っていいよ。自分のできることは何でも自分でやってみなさい」と、言いながらとにかく自信と誇りを持たせる。親のことは一言も言わないで。そして、この時初めて以前書いた『手塩』という言葉について、意味と使い方を調べてノートに書いてくるようにと、言い渡す。Yにとって初めての生きた国語の勉強かもしれない。果たして、手塩にかけて育てられたことのないYに、何がどこまで通じるか、まだまだ半信半疑ではあるが、人の記憶とは体感することでしか定着しない。一個のおにぎりから派生するさまざまな事柄を、身をもって感じさせることに意義がある。どうにもならない親のことをなじるより、Y本人の自立を手塩にかけて育んでいく方が生産的ではないだろうか。
それから1か月。そこまでどうにかこうにかであっても、おにぎり作りが続けられていたらかなり見込みはあるだろう。Yは親を乗り越えたと言っていい。心の栄養を与えるには、教える側の工夫も必要だ。頭ごなしに言ったところで、その言葉はただ頭の上を通り過ぎるだけだ。さて、おにぎりをマスターしたところで、次の目標は…卵焼きの作り方を教えようか。いや待てよ、焦ってはいけない。まずは「ゆで卵」からだ。
KEI]]>
How are you?
http://kmddesign.exblog.jp/30861412/
2019-12-24T00:00:00+09:00
2020-08-21T11:15:13+09:00
2019-10-23T15:50:15+09:00
kmd-design
Essay
次男坊で既に父親が他界していたため、経済的な自立こそ必須であるが、父親という煙たい存在がない分、自由の身であった。学生時代には当時近所にあった進駐軍キャンプに出入りして英語に磨きをかけ、結婚する際も、大学教授の娘で著名女子大の英文科を出た、自分のキャリアやライフスタイルにふさわしいお嫁さんをもらったことを考えると、誰かが何かしてくれるのを待つ、というのでなく、自ら人生のレールを敷いていく頼もしさを感じる。一方、あえて悪く言えば、立ち回りのよい、そして親族からは良くも悪くも「せっかちな奴」と言われていた。
その後の彼の人生はと言うと、当時の一般的な日本人のような終身雇用に身を任せるのではなく、何度か転職をし、おそらくそれによってキャリアアップしたのであろうが、常に日本の一流企業に在職し、人生のほとんどがアメリカやヨーロッパでの生活で、そのせいか、たまに帰国した時の叔父の挨拶はお辞儀ではなく、必ず握手だった。
叔父はまた、アメリカ在職時代には、ビジネスだけでなく野球好きの趣味を活かして、マイナーリーグ(メジャーリーグでないところがニッチではあるが)の試合をあちこちで観戦し、しかもただ見に行くだけでなく、顔パスで出入りできるくらい可愛がられたらしい。余談だが、後年、ライフワークとしてアメリカベースボールのマイナーリーグ解説本を上梓し、マイナーリーグに精通する日本人となった。
ある時、叔父(まだ独身の頃)の勤め先の商社に私と祖母とで訪ねて行ったことがある。ずいぶん古い記憶で、私が4、5歳の頃のことだ。何で行ったのか目的は全く覚えていない。祖母にしても息子の職場にしゃしゃり出ていくようなタイプの人ではないので、何かを届けるとか、よほどのことだったのだろう。
会社は丸の内で、ビルの前は並木道だった。エレベーターに乗り叔父のところへ行くと、がらんとした会議室のようなところに叔父と上司らしきアメリカ人男性がいた。叔父は私を呼び、上司に自慢の姪を見せようとして高く抱きかかえた。
「はーわーゆーって言ってごらん」
と、叔父は片手で抱きあげた私に言う。
私は、なんだか意味はわからないが、このタイミングで「はーわーゆー」と発すればおそらく受けるのだろうと思いつつも、恐ろしさから声が出ない。元々人見知りするたちであることに加え、間近に外国人を見ることが初めてで、怖くて固まってしまったのだ。体つき、そして髪の色や特に瞳の色が日本人と違いすぎること、それは大きな衝撃で、見つめられたブルーグレーの瞳の色は、今でも思い出すことができるほどだ。
「はーわーゆー」が”How are you?” の意味だと知ったのはずっと後のことだ。あの時の私は、日本語とか英語とか言語の違いということもよくわかっていなかった。が、しかし、あの時器用に「はーわーゆー」と発していれば、次の会話が続いたのか。もしそうであれば、おそらく今頃英語なんかへでもなく、それ以上に外国人とのコミュニケーションの成功体験はその後の私の人生を大きく左右したに違いない。なぜなら人格形成とは、成功体験の積み重ねであるからだ。
どうやら私は大きなチャンスを逃したらしい。”How are you?”は単なる挨拶ではなく相手と会話を始めるきっかけの言葉である。見知らぬ人に近づく第一歩なのだ。
叔父は、”How are you?”の一言から、進駐軍やマイナーリーグに入りこみ(もちろん仕事も)、信頼を獲得していったに違いない。
KEI
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桃色のゆくえ
http://kmddesign.exblog.jp/30910485/
2019-11-19T17:07:00+09:00
2023-11-21T13:33:16+09:00
2019-11-19T17:07:55+09:00
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Essay
小学校6年生のある時、その日は、年に何回かの身体測定の日で、クラスの女子全員が保健室に集まった。教室の半分くらいの広さの保健室に20人も入ると、育ち盛りの子供の熱気で一杯だ。女の子は小学校の高学年にもなると心身共に一気に成長する。そんな時だから身体測定というのも微妙にうっとうしいものなのだ。更衣室代わりにカーテンで区切られたベッドの上に、それぞれ脱いだ服を置き、準備ができた人から保健の先生に身長体重を測ってもらう。私がカーテンを開けて出ていこうとすると、ちょうどM子が身長を測ってもらっているところだった。彼女は学年で一番背が高く、要するに早熟な子である。すでに先生の身長を追い越している彼女は、誇らしげに、それでいて少し恥ずかしそうに身長計に乗っていた。
ところで、その頃の小学生の女の子の下着がどんなであったかといえば、白いメリヤス(今でいうスウェット)の生地でできたお決まりのシャツやパンツで、夏はシャツの代わりに白のブロードのスリップ、スリップの裾には申し訳程度に綿のレースがついていた。どの子もほとんど同じである。ところが、M子の下着は一人だけそれとは違っていた。それは「桃色」のパンツ、いや、パンティーといった方がいいものだった。「桃色」…たとえば百歩譲って淡い桃色ならまだしも、彼女のそれはショッキングピンクと言ってもいい挑発的な色である。素材も綿ではなくナイロンで、明らかに子供の下着ではない。私はそれを見て、「M子よ、一体どうしちゃったのだ?」という思いと共に、なんとなく、場違いな彼女はすでに違う世界へ行ってしまったのかも、と感じた。
中学生になり、そのまま地元の学校へ行った私は、またM子と一緒だった。取り立てて親しかったわけではないが、一緒に遊んだこともある。彼女は体こそ大きいが決してすれていたわけではなく、地味な存在だった。ある時、校舎の廊下で友達をおんぶし合って遊んでいた時、M子がひょいと友達を背負った拍子に制服のスカートがめくれ、そこにまたあの色の、今度はスリップが見えてしまった。その瞬間私は、またしてもあの色か、と感じると同時に、どうして学校という場に桃色を持ち込むのだろう、とM子の真意がわからなかった。が、しかし、この時はもう以前のような驚きはなく、むしろ、このどうしようもないちぐはぐさを誰かに見られてはまずいぞ、という思いで一杯だった。
それから翌年、夏休みが明けたある時、M子が母親と肩を並べ楽しそうに歩いている姿を見かけた。すでに彼女はもう大人の体つきだったから、二人はまるで年の離れた姉妹のように見えた。意気投合した親子の後ろ姿を追っていたら、彼女たちはそのまま間口の狭いスナックの店内へ、さっと扉を開けて入っていってしまった。昼間だったからお客はいなかったと思いたいが、何のためらいもない入り方は、彼女にとってそれがすでに日常の行為となっていることを感じさせた。これには私はびっくりした。その店で彼女の母親が働いていたのか。そうかもしれないが、彼女の母親はちびまる子ちゃんのお母さんみたいなくるくるのパーマネントのどちらかといえば「かまわない」感じの主婦で、水商売風の小奇麗な外見とは程遠く、どう見ても接客業には見えない。理由はどうであれ、彼女が中学生でありながら大人の居場所に出入りしていることで、例の「桃色」にこだわる理由がわかった。彼女は早く大人になりたかったのだ。しかし私からすれば、こんなに若くして何も安売りしなくてもよかろうものを、もったいないな、と残念でならなかった。と、いうのも私にそう思わせるほどそこは安酒場だったからだ。そして、背伸びした彼女が将来玉の輿を狙うのであれば、むしろ白い清楚なパンツの方が早道だぞ、と教えてやりたかった。
あれから何十年。M子は今どうしているだろう。桃色の行きつく先が気になる。もし仮に、今も場末のスナックで、くたびれた男たちに媚を売っているとしたら、あまりにもつまらない。人生、お堅く清潔であるばかりがいいわけじゃない。いっそまぬけなドンファンでもたぶらかし、大金持ちになって鼻でも膨らませていてくれたらいいのにな、と願うばかりである。
KEI ]]>
アトリエの裸婦
http://kmddesign.exblog.jp/30881484/
2019-10-30T13:31:00+09:00
2023-11-21T13:42:27+09:00
2019-10-30T13:31:58+09:00
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Essay
画塾の主は、初老のおばさんだった。(生徒はみんなおばさんと呼んでいた)いつも和服の襟を少し抜き、帯を『貝の口』に結んで、白髪混じりの髪をアップにして後ろで止め上げた、後姿が粋な人だった。色白でメガネをかけて宇野千代さんみたいな雰囲気だ。私の母や、友達のおかあさんのようないわゆる主婦とは全く違う人種である。彼女はその頃何歳だったのか、まるきり不祥であるが、既に未亡人で、画家のご主人が残した主なきアトリエを開放して画塾を開き、生計を立てていた。と、いっても彼女自身が直接生徒に教えていたわけではなく、風采の上がらない男の先生が二人で指導にあたっていた。
画塾の建物は、古い洋館のような、明らかに周囲の家とは異なる雰囲気を持っていた。棕梠の木が茂った門から玄関までの長いアプローチを抜け、菱形のガラスが嵌った扉を開けると、靴箱の並ぶ玄関だった。靴脱ぎ場から続く廊下の左の部屋が大きなアトリエ、右はおばさんのプライベートスペースだった。アトリエは北側で天井が高く天窓からだけの採光だった。平たく横に繋がっていく日本家屋とは違った井戸の底のような西洋的な空間である。壁の上部には、金色のデコラティブな額縁におさまった、横たわる裸婦を描いた大きな油絵が掛かっていて、それはまるで教科書で見るような裸のマハやアングルのオダリスクを思わせた。生徒はコソコソと「あの絵のモデルはおばさんらしい」と、噂していた。私は「まさか違うだろう、自分の裸を飾っておくはずがない」と思いながらも、もしかしたら画家のご主人とおばさんの思い出の絵なのかも、と半信半疑で、おばさんにはかられないように裸婦の顔をちらちらと観察した。
ある時、おそらく4年生頃だったと思うが、いつものように画塾に行くと、その日使う画用紙の真ん中に不定形に切った英字新聞の切れ端が貼り付けてあった。これはいったい何なのだろう?と思っていると、先生が、「今日はこの紙を使って、その上に絵を描きなさい」と言う。既に何年もここに通っているが、こんなことは初めてでやたら新鮮に感じる。英字新聞の切れ端がなんだかとってもカッコイイ。それ以上に、画用紙は白くてさらのもの、と思い込んでいたので、必ずしもそうではない条件付きの場合もあるということを知り驚いた。もっさりした先生にこんなセンスがあるなら、もっと早くこういうことをやって欲しかった、とも思ったが、とりあえず先生のセンスにこの時初めて感心した。(生意気な子ですね)
英字新聞の下地は、いざ向き合ってみると案外難しかった。貼ってある箇所を気にしすぎても自由に書けないし、さりとて気にしなければ意味がない。そう考えた末、新聞の面全体に色を付けるのではなく、白く新聞紙のまま残った部分をつくった。壺や白いホーローの水差しなどの静物の写生(水彩画)だった。今思えば、ブラックのキュービズムもどきのへんてこな絵である。しかしながら、この時の経験は、普通に絵を描くことにあまり興味が持てなかった私に、単に写生という見たままに描く手法でなく、モチーフを再構成するような面白さやオシャレさもあるのだということを感じさせた。おばさんといつもにこやかで、制作について何かを言う人ではなかったが、今回の試みに対しては「こういう手法もあるのよね」と、知っている風であったので、おそらく昔は画家だったのかもしれないと思った。
後に私は、美大に進学することになり、その時おばさんに報告としばらくぶりの挨拶に行った。おばさんは、その時は既に画塾を閉めていた。何年ぶりかに門を開け、アプローチから玄関に向かうと、昔と変わらない風景があった。が、しかし、活気がないそこは、油絵の具が乾いて固まっていくように、建物も室内も油気がなくなってかさかさしているように感じられた。使わなくなったものがさびついて動かなくなるようなさみしさ。久しぶりに会ったおばさんは驚くほど小さく見えた。小学生の頃は立ち入ったことのないおばさんのプライベートスペースに通されると、そこには油絵の具や金色の額縁とはまるで違う畳敷の和室があった。考えてみれば常に和服だったおばさんは、和箪笥や貝の口の帯を結ぶための姿見が不可欠な生活を送っていたのだ。そう思うとなんだかおばさんが愛おしく、初めて彼女をひとりの女性と感じた。
アトリエの裸婦はあのままだろうか?
おばさんの淹れてくれたお茶をいただきながら、ふと、閉ざされた部屋の絵が頭をよぎった。
KEI]]>
失敗談
http://kmddesign.exblog.jp/30772380/
2019-09-17T17:26:00+09:00
2023-11-21T13:48:34+09:00
2019-09-05T20:09:23+09:00
kmd-design
Essay
そこは、大きな古民家を店舗に改装した和食の店で、広間と高い天井が立派だった。初対面でいきなり食事の席というのはあまり有難くはないが、相手にしてみればはるばる来てくれた我々をもてなすつもりもあったのだろう。一行十名ほどはぞろぞろと古民家の座敷に上がり、社長と先生を囲んで会食が始まった。私は会ってまだ数時間しか経っていないこともあり、何を聞いてよいやら話の糸口が見つからず、手持ち無沙汰で所在ない。
不思議なことに彼らは食事の間プロジェクトの話は一切口にしなかった。こういう席ではビジネスの話はしないものなのだ、と認識し、慣れない場の傍らで、彼らの話に耳を傾けていた。話は、特にこの地方と関連する歴史の話に終始していた。通常、歴史上の人物や出来事であれば、所詮は過ぎた過去のこと、現在進行形の政治の話と違って、どうであってもそれぞれの主義主張と張り合うこともなく、無難な話題といえる。とはいえこういった話は男性特有のもので、女同士は歴史の話はめったにしない。なぜなら歴史の話は男性ならではの天下を取りたい欲求に基づくものだからだ。
私は、横で聞きつつも、今日の午後の展開はどうなるのだろう、男社会の中でこの仕事の進め方は難しそうだな、とぼんやりと考えていた。
そうこうして、やがて食事も終わりに近づいた時、突然社長が私の方を向き、
「センセイ、今まで仕事で失敗したことあるか?」
と、尋ねたのだ。(なぜかこの時、先生と呼ばれた)
まったくもって突然、前後の話の脈絡もなくいきなりの振りである。
思ってもいない質問に私はたじろいだ。
(何と答えればよいのだろう)
心が騒ぐもふいには思い当たらない。しかも、せっかく紹介してくださった建築家の先生の顔を潰すわけにもいかず、頼りないデザイナーではまずいだろうと思い、
「失敗?ですか?仕事上で?ですよね?それは…えーと、ないです(断言)」
と言ったのだ。決して自信満々というわけではないが、仕事で失敗するようなヘマをやらかした覚えはない。それを聞いて社長は、
「へぇー、ないの?一回も?」
と、意外な様子で、期待した答えが得られなかったのか、面白みのない奴と思われたのか、以降話は弾まなかったような気がする。
私は食事が終わってもずっと考え続けた。あの場合どう切り返すのが正解であったのか。相手は何を望んでいたのか。失敗するようなデザイナーに仕事を任せるバカもいないだろうが、と思いつつも、いくら年下でも初対面の相手に尋ねる質問として、真っ先に「失敗」という言葉を投げかけるとは失礼すぎるというもの。あの社長は一体どういう人なのだろう?もしかしたらいつも飲み屋で女の子が困りそうな質問を振って楽しんでいる輩なのかも、などと、あらゆる想像を巡らせた。
時が経ち、少しだがわかったことがある。「失敗」を経験するにはそれ相応のキャリアが必要であるということを。失敗と認識するからには、それとは逆の数々の成功体験がなければ、失敗の経験も浮き上がってこない。そうした意味で私は全くキャリア不足であったのだ。しかも「私、失敗しないので」は、外科医であってこその決めゼリフで、命に関わらないデザイナーにおいて「失敗しない」では、可愛げも何もあったものではない。人は少し不完全なものに惹かれる。
以来、私は「失敗談」のネタを探し続けている(笑)。
と、いっても、実際には数々のトラブルはあれど、失敗というのは極めて少ないし、仮にあっても大事に至らず済むのがほとんだ。しかもその道のプロにしかわからないような失敗ではなく、誰にでもわかりやすい「大失敗」のネタ、それこそ準備しておいて損はない。
失敗談とは何か。それは顧客サービスである。食事の席の「余興」みたいなものだ。話は本当でも嘘でも構わない。そして、ここが肝心なところだが、失敗談は失敗のまま終わってはいけない。修羅場を潜り抜けて成功へ辿り着く、失敗からの逆転劇こそ、誰もが聞きたい話である。まさに、プロジェクトXならぬ、星の数ほどある「ドラマ」というものの鉄則ではないか。
その時は、田舎のおっさんとしか見受けられなかった社長だが、その人からサービス精神とは何か、人は何を望むかを教えられた気がする。そして今、大人になって、あの時どのように切り返せばよかったのかがわかるようになった。
答えは、
「社長は、いかがです?」
と、投げかけられた質問をそっくりそのまま返せばよかったのだ。
社長は失敗談という自身の人生ドラマを聞いてもらいたかった。おそらくそうに違いない。
KEI
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お茶パック男子
http://kmddesign.exblog.jp/25539561/
2016-08-03T13:44:00+09:00
2021-06-25T15:12:24+09:00
2016-08-03T13:44:37+09:00
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身近な日常
お茶パックはカレーやスープを作るときにも香辛料を入れても使う。細かい香辛料がばらけず、後で取り出しやすいので重宝している。
先日も在庫切れとなったので、近くの「百均」に行った。普段はスーパーで買い物のついでに、売り場の端っこにぶら下がっているボール紙に貼り付いたものを買うのだけれど、たったそれだけを買うためにレジに並ぶ気がしない、という理由からの「百均」だった。
昼休みの時間、お店は空いていた。私は頭の中で「お茶パック、お茶パック」とビニールに入った名刺サイズほどのお茶パックの画像を頭に描きながら、キッチン用品売り場をまっしぐらに目指した。
遠くから見てちょうどその辺りかな、と思えるところにお客さんがひとり。若い男子が背を向けて立っている。なんだか場にそぐわないな、と思いながら近付いていくと、まさにその時、その男子が、私の目指すお茶パックを手にとろうとしている!
何たる偶然!
お茶パックというものがそんなに売れる商品とは思えないので、今この瞬間にこの店で二名が同時に手に取ることはとても低い確率である。しかも、お茶パックを購入するのはおおかた主婦だろう。奥さんに頼まれて渋々買いに来たようなお父さんもたまにはいるかもしれないが、家庭の匂いが全くしない若者が何を目的にお茶パックを手に取っているというのか。そもそも一般的な若い男子はお茶パックというものの存在すら知らないのではないか。
全くたわいのないことなのだけれど、どうでもいいディテールにひっかかりを覚えてしまう私…。
客観的に捉えると、「百均」の店内のキッチン用品の一角で、おばさんが男子目掛けて近付いてきた、という変なシチュエーションが展開されてしまったため、私は、あえて冷静かつ無関心を装い、さっと別のパックを取ると、他のことに一切関心はないかのふりをしながら一目散にレジへと向かったのである。
今時の男子は、弁当男子とかスイーツ男子とか、編み物男子とか、ひと昔前なら考えられないような趣味を持つ者もいると知ってはいたが、昼の日中の「百均」で、お茶パックを手に取った男子の目的は一体何だったのか。(まだ気にしています)
まさか、自分でお茶を淹れて飲むために買ったわけじゃないですよね。
KEI
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ミルク会議
http://kmddesign.exblog.jp/25089100/
2016-03-29T19:32:00+09:00
2023-11-21T13:55:03+09:00
2016-03-29T19:32:01+09:00
kmd-design
Essay
開催場所は公共系のホテルの会議室、いや、宴会場のような内装の一室である。毎度のことだが、白いクロスが敷かれたテーブルには、各自の名札と共に資料と空のティーカップと氷水が置かれている。定刻に始まった会議は、議事次第の通りに進み、20分ほどした頃、黒服のウエイターが銀のポットを持って、各自のテーブルに置かれたカップに飲み物を注ぎ始めた。2時間の会議だから少々早めのサービスかもしれない。
こうしたホテルでの会議の場合、コーヒーが供されるのが一般的かと思うが、なぜかこの委員会ではいつも紅茶だった。きっとトップがコーヒーNGなのか?理由はわからない。いずれにしてもオジサン揃いの会議で紅茶というのもずいぶんエレガントな選択ではあるなと、どうでもいいことだが少々違和感は感じていた。(ささいなことが気になります)
そうこうするうち、お偉い方々の席を一巡したウエイターが、次に偉くない後方の随行者の席へ移動し、私の前のカップにも飲み物が注がれる番が来た。
ところがその瞬間、意外な光景が目の前に展開した。イメージしていたものとのギャップ。ポットから注がれるべき液体は茶色と思い込んでいたのだが、白いのだ。ミルクである。
私はそれでもなお、ミルクのままということはいくら何でもあり得ないので、その上にコーヒーもしくは紅茶が注がれ、カフェオーレかミルクティーになって完成する姿を想像した。が、それにしては注がれたミルクの量が多すぎはしないか…?
そうこうするうちにウエイターは私を通り越して、隣の席へ移ってしまい、結果、注がれた飲み物は「ホットミルク」であることが確定してしまった。
「えーっ!何でコレ?」と、思わず声をあげそうになる。
私はもう会議どころではなく、この顛末がおかしくておかしくてたまらない。一体どういうオーダーをし、どういう風に伝達されたら40杯ものホットミルクが会議の飲み物として提供されるのか?明らかなる発注ミスの原因はどこにあるのか?会議、オジサン、ミルクの図式が頭をグルグルまわり出す。
次に気になるのは周囲の様子である。この一大事に対する他の人の反応が気になって仕方がない。「ミルクってありえないでしょ」と思うのだが、前の席のお偉方はといえば、全く何事もなかったように、思い思いにカップを口に運んでいる…。
想像してほしい。大の大人が揃いも揃ってホットミルクを前にした会議を。それはまるで半世紀前の給食時間にタイムスリップしたようではないか。おいしくもない脱脂粉乳を一同ですすっていたあの頃に。
ようやく気付いて慌てた事務局の担当が、ウエイターに何かを指示し、しばらくしてまた同じようにティーカップが、まるで何事もなかったかのように事務的に配られ、今度は無事に定番の「紅茶」が注がれた。
今考えてもおかしい。繰り返すようだが、どこでどう間違うとホットミルク40杯になるのか。ホテル側もホテル側ではないか。40名もの有識者会議でホットミルクをオーダーすることは「牛乳協議会」でもない限りあり得ないことなのに。気が利かないにも程がある。
ところで、その日の会議は私の驚きに反して、何事もなかったように進行していったのだが、分厚い検討資料の中には赤ちゃんの「哺乳瓶」の図柄が含まれていた。哺乳瓶は「授乳室」を示すピクトグラムである。実は本年度このピクトグラムはJIS(日本標準)化される予定である。既に哺乳瓶を用いたピクトグラムは様々あるが、そのお手本版を作ろうというものだ。
この哺乳瓶の図柄については、少々曰くがある。母乳育児を推進する団体から、人工乳を示す図柄にクレームが出されているからだ。しかしながら、この会では授乳室を示すピクトグラムに赤ちゃんを抱っこした授乳の図柄ではなく、哺乳瓶の方を採用することに決まったばかりである。普及率や男性の育児参加など、総合的に判断しての結果だ。スタンダードを決めるのは容易ではない。
そうしたいきさつから深読みすれば、笑える「ホットミルク」はむしろこの検討会にぴったりの飲み物だったのかもしれない。赤ちゃんに戻って、あるいは小学校の給食時間を思い出して、文句も言わず出されたミルクを飲み干した一同が、何はともあれほほえましい。
KEI]]>
よい仕事は美しい
http://kmddesign.exblog.jp/23957941/
2015-04-30T17:43:00+09:00
2023-11-21T13:58:47+09:00
2015-04-30T17:43:36+09:00
kmd-design
Essay
キャリアガイダンスとは、近年、同窓会が主体で開催している進路指導の一環としての正式な授業で、授業であるからには生徒を正しく導くという使命が講師には課せられ、めったやたらなことを言ってはいけないという暗黙の了解があった。
話をいただいた時は、今の高校の在り方 や生徒に対する過保護ぶりに驚き、公立高校で放任だった自分の在学中の校風とはまるきり違うことを認識したのだった。
高1じゃどうせ進路なんてまだまだ先の話、まともに聞く耳を持たないだろうし、そもそも「やりたいことがワカンナ~イ」なんていうのがほとんどかと勝手に想像していたのだが、どっこい、こちらの幼稚な想像が恥ずかしいくらい彼らはちゃんと話が聞けて、将来の方針もある程度イメージしている様子。しっかりしているのだ。
当日はモデレーターとパネリスト5人(いずれも同期)がパワーポイントでそれぞれの仕事を紹介し、生徒の質問にも答えつつディスカッションを行う形式。
登壇するにあたり自分なりにこれだけは気を付けようと思ったのは、上から目線や説教じみたことを決して口にしまいということ。
いくら年齢が離れていても上から「地道な努力」とか「…でなければならない」といった、わかりきったことや決めつけは誰であっても聞きたくないだろうし、そもそも説教するほどこちらも偉くないし、という考えからだ。
聞く側にとって話とは、一般論などどうでもよく、例えそれが全容でなくとも具体的であればあるほど面白い。その立場の人の視点でなければ出てこない世界観が感じられる話こそが聞きたいもの、価値を感じられるものである。
まぁ、どっちみち話術など身に着けていない素人は、自分の経験を自分の言葉で話すことしかできないのだが。
「どんな職業でもその道をきわめれば(きわめたいですけど)人生豊かになるよ、それぞれ自信を持って自分のやりたい仕事に就こう」というのが大雑把な結論かと思うが 、先輩から後輩への応援メッセージが、初々しい高校生たちに果たして伝わったのかどうか。
それはともかく、私も聴衆の高校生と同様、同期がそれぞれどんな仕事をしてきたのか、プレゼンテーションを傍観する機会を得られたことは今回の大きな役得であった。
職業が違うと(例えば、 お医者さんやエンジニアとデザイナーの私とはまるで違う分野なので)まるで共通点なんてないだろうと思い込んでいたが、いやいや、決してそんなことはない、むしろあるのですね、これは新しい発見だった。
最後は、キャリアを積むことの素晴らしさ、そしてそれによって見えてくるものという話になり、職業は違えど「よい仕事は美しい」という結論に、たいそう納得したのだった。
KEI
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勝ち組ハウス
http://kmddesign.exblog.jp/23047268/
2014-10-02T15:28:00+09:00
2020-08-21T15:33:25+09:00
2014-10-02T15:29:02+09:00
kmd-design
Essay
昨年大型シェアハウスのサイン計画の仕事をした。
644もの個室を持つ、いわば新たなビジネスモデルともいえるもので、新聞テレビなどでもずいぶんと話題になった。
元はウォーターフロントの倉庫があった場所の建て替えだが、10階建ての棟が中庭を介し3棟。個室は狭いが、トイレ、シャワー、もちろんベッドやデスク、収納棚など一通りがセットになっており、ホテルのシングルルームと同じ手軽さで、すぐに住まうことができる。
二層ごとの共有スペースには、料理のできるキッチンとリビングスペース、ランドリーなどが完備され、おまけに超大型施設ならではの特典として、レンタルの書斎やロッカー、ライブラリー、フィットネスルーム、大浴場があり、レストランが入るスペースもある。都心に近い地の利を含め、至れり尽くせりの手軽さだ。
実はこのシェアハウス、644室は対個人の賃貸契約ではなく、大手の企業へまとめて貸し出す形式。言ってみれば企業寮の集合体である。借り手側の企業には最大50室までという制約があるが、50と限定しているのは貸す側のリスクヘッジの意味もあろうが、できるだけ多業種の企業にアピールしたいというもくろみがあるからだろう。
財政のスリム化で企業が独身寮などを持たなくなって久しいが、大企業相手にはこうした新しい住まい方のモデルがちゃんと用意されていることを知った。しかもここに入居できるのは企業の中から「選抜された」エリートたちばかりというふれこみだから、それを真に受ければ、まさに人生の勝ち組たちの新しいすみかということができる。
一方、負け組側のシェアハウス(というよりむしろこちらの方が一般的シェアハウスの概念ではあるが)は、経済事情から生まれた苦肉の策であり、一時はまかり間違えば脱法というところまでエスカレートした。そこまでいかなくともこうした小型のシェアハウス、シェアオフィス、グループホームなどにおけるシェアの概念は、経済性だけでなく、高度成長期に建てられた中古ビルの恰好の使い道として広がりを見せた。よって今後もますます老朽化する建物が増え、さらには単身者やワーキングプアも増えるとなると、スタイルこそ違えど、こうした住居が増え続けることは想像に難くない。
最近ではただの雑居的な概念から一歩進んで、同じライフスタイル、同じ趣味を持つ者たちにとって、高付加価値な共生スタイルが登場しており、そうした同居形態はシェアハウスとは呼ばず、コレクティブハウスと呼ぶのだそうだ。中には家族がありながら単身入居する人もいるとか。
ここまで行くとこれからは、勝ち組も負け組も、老いも若きも、単身でなくとも「シェアハウス みんなで住めばこわくない」、なんてことになるのかも。
ところで、工事が終わり、サインの検査かたがた完成した館内を改めて見て回ると、内心こんな狭いところじゃ住めやしない、と思っていたはずが、個室はともかく共有スペースの充実ぶり、それよりなによりお風呂の掃除をしなくていい、ゴミを出さなくてもいい、家のメンテナンスがいらないなどなど、お手軽で魅力を感じるばかり。ものぐさにはもってこいかもしれない。
まぁ、それは冗談にせよ、母親的な目線で感じたのは、これから入居する若いエリートたちが果たしてここから出ていくことができるのだろうか、という疑問。
居心地のよい空間、つかず離れずの疑似家族の中で、あえて面倒くさい結婚などする気になるのだろうか…?と、心配せずにはいられない。
KEI
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落とし物、拾い物
http://kmddesign.exblog.jp/21758809/
2014-04-14T18:02:00+09:00
2023-11-21T11:25:16+09:00
2014-04-11T17:48:18+09:00
kmd-design
Essay
四つにたたんだ千円札が一枚、道の端っこに落ちている。誰かが何かの拍子で落としたのだろう。
(うわ、もうけ!千円でもうれしい。でもこれが一万円札だったらもっとだけど)
と、思いながら辺りを見回す。どこまで欲深なんだか私。
今まで道でお札を拾ったこと数回。
最初は高校生の時、学校帰りの道でむき出しのお札を拾った。五千円札が1枚と千円札が2枚、計七千円だった。
近くの交番に「そこで拾いました」と届けたのだが、結局落とし主が現れることもなく、半年経って私のものとなった。当時の七千円は大きく、自分にとってはちょっとした事件だった。
けれどもその時学習したのは、名前も目印もないお札は、届けてもあまり意味がないということ。そもそも落とし主自身が気付いていないのだから名乗り出る人はいないのである。だからといって届けないでネコババすればもちろん拾得物横領罪ではあるのだけれど。
もっとも、竹やぶから一億円とか、銀座のど真ん中で一億円なんていう場合は(若い方は知らないかも)もちろん交番がどんなに遠くとも届ける。この場合も別の意味で落とし主が現れることはないのだから。
そうするとこんなことも考えられる。もしも、私が一億円の裏金を手に入れることのできるワルだったら、あえて拾いましたと言って届け出る。当然落とし主は現れっこない。それどころか半年経てばきれいなお金となって自分の元へ返ってくる。拾得物はマネーロンダリングに使えるということ。もっともこれは一回こっきりだけれど。
いくらであれ拾った時はもうけたと思う現金だが、おそらくは自分も同じくらいどこかで落としていることは確信できる。人生そんなものだ。
自分の身に置き換えてみても、財布を盗られたとか、電話ボックスに置き忘れたとか、ゴミと一緒に捨ててしまったとか…思い起こせばさまざまあるが、こんなのはカワイイもの。これまで失くした総額は拾った額を遥かに超えている。極めつけは、ドイツの博物館で貴重品バッグを忘れたこと。
ユーロ、日本円の現金はもちろん、クレジットカード、パスポート、携帯電話など、旅行者にとってのあらゆる貴重品を置き忘れた。しかも夫と二人分。
これは私の人生においてもかなりの失態だった。
少々長くなるが、事の顛末はこうだ。
博物館で入場券を買った後、館内を見学するために身軽になろうとロッカールームのロッカーに大きな荷物やコートを入れ、貴重品とカメラだけを持って出た。(ここまではよく覚えている)それから、展示ゾーンの入り口でもぎりの兄さんにチケットを見せて入場した。
その時ふと(この兄さんドイツ人にしてはずいぶんイケメンだな、何でこんなところでもぎりなんかやっているのだろう)と思ったのをよく覚えている。(不謹慎でした)
それから展示を見たり写真を撮ったりとウロウロしていたのだが、小一時間ほど経って、映像コーナーで初めて立ち止まり、映像をボーっと見ていた時突然降ってわいたように
「自分は、カメラは持っているけれど、他の荷物はどうしたんだっけ?」
という恐ろしい状況に気付いてしまった。
その瞬間血の気が引いた。
「ない、ない、貴重品!」
頭が混乱する。
「どうしよう。ここは海外。落とし物なんて、出てくる可能性ゼロ!」(決めつけてます)
一緒にいた夫は私がパニックになっているので、逆にどんどん冷静になっていったのだろう。私をなだめ、どこに置き忘れたか、今来たところを戻りながら思い出そうと言う。
不思議なことにこの時夫は全く私のミスを責めなかった。今考えてもそれは偉かったと思うが、あまりに事が大きすぎて言葉も出なかったのかもしれない。
記憶を巻き戻す、その一言でやや落ち着きを取り戻し、今来た道を引き返しながら進んでいくと、荷物を置いたのは展示室に入る前の、トイレ以外にないという結論にたどりついた。
そして、入り口で尋ねようと足早に戻っていくと、そこにいたのは先程のイケメン兄さんだった。
しかも彼は私を見るなり
「YOU何か落としたよね」と、言うではないか!しかも今頃気付いたの?と言わんばかりの表情で。
おそらく血相を変えた私の顔を見て、一瞬で忘れ物の主はコイツだ、とわかったのだろう。
その瞬間の私の安堵感と言ったら、それはもう子供でも一人産み落としたかのような気持ちだった。正直言ってお金を落とした損失より、どちらかといえば、これから先に発生するはずだったさまざまな面倒を回避でき、心底助かったという思いだった。
落とし物は届けられて、しかもそのことが入り口にまで伝わっているハンドリングのよさ!
「すっ、すごい。これって日本よりすごいじゃない!」と叫びたかった。
私はこの時ほど「ドイツ人大好き」と思ったことはない。
届けてくれたのはドイツ人ではなかったのかもしれないがそんなことはこの際問題ではない。
「とにかく、ここがドイツでよかった。やっぱドイツだよね!」などとドイツ人やドイツという国に賞賛を唱えながら、兄さんに教えてもらった預り所に足を運んだのだった。
果たして貴重品は、そっくりそのままだった。パスポートや携帯電話だけでなく現金すらも手つかずで、何事もなかったように私の手元に戻ってきた。
「お・も・て・な・し」が一斉風靡した昨年、オリンピック東京大会招致の最終プレゼンテーションのスピーチで、「東京は何か落としても戻ってくる、世界一安全な都市です」という一節があったのを覚えておいでだろうか。
私はそのスピーチを聞きながら、日本人の誠実さを訴える例えとして、また、東京の日常を伝える裏付けにぴったりだなと思いつつ、自身のこの体験を思い出していた。
そうなのだ。改めて私はこの場で声を大にしてドイツ人に感謝したい。
「日本人は誠実です。でもドイツ人はもっとよ!!」
KEI
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