2007年 02月 20日
砂の女
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昨年12月に亡くなった女優の岸田今日子氏。そんなにお歳ではなさそうだったのに、あれだけのキャラクターをもった声の持ち主が亡くなったことを大変残念に思う。
(たしか一番最近お見かけしたのは三島の「春の雪」で、妻夫木聡のおばあさま役でした)
岸田今日子といえば「ムーミン」。
子供なのに悟りを開いたようなあの声は、日本でのムーミンのキャラクターを不動のものにし、大山のぶ代のドラえもんと並ぶ身近な存在であった。
しかし、私にとって岸田今日子は、イコール「砂の女」といってもいい。そのくらい映画「砂の女」の印象は強かった。
安部公房の原作「砂の女」を読んだのは学生時代だった。現実ではありえないSF的な小説だと思った。そして、どうやってものがれられない「砂」という「何か」わからない呪縛にイライラを感じた。その時はそれくらいしかわからなかったのだ。
映画を見たのはそれよりずっと後になってからだが、小説よりはるかに衝撃的だった。
何といっても最大の驚きは、映像として表現しにくい世界を具現化している点である。
「砂の女」はいわば観念的な、頭の中の物語である。それを映像として見せた勅使河原宏という人のすごさにも敬服した。勅使河原監督の安部公房ものは「砂の女」の他にもいくつかあるが、「砂の女」に優る作品はないだろう。
その理由のひとつとして、主演女優、岸田今日子の存在感があったのではないかと思う。
映像はモノクロームなのに、若かりし頃の岸田今日子のなまなましい演技と、それとは逆の突き放したようなそっけないセリフによって、仮想の世界がどんどんリアリティーを増してくる。
見ているうちに、「砂の女」とは人生そのものだ…と、私は思ったのだった。「砂」とは降りかかる運命である。逆らおうともがいても飲み込まれて、しまいには自らその境遇に甘んじ、運命を受け入れるようになっていく…。人生とはまさに「砂の女」の日課のように「穴」の中に落ちてくる「砂」を毎日毎日すくいだしているようなものだ、と。
岸田今日子の低音で吐かれる一言一言はずっしりと、まさに砂のように重かった。
KEI
(たしか一番最近お見かけしたのは三島の「春の雪」で、妻夫木聡のおばあさま役でした)
岸田今日子といえば「ムーミン」。
子供なのに悟りを開いたようなあの声は、日本でのムーミンのキャラクターを不動のものにし、大山のぶ代のドラえもんと並ぶ身近な存在であった。
しかし、私にとって岸田今日子は、イコール「砂の女」といってもいい。そのくらい映画「砂の女」の印象は強かった。
安部公房の原作「砂の女」を読んだのは学生時代だった。現実ではありえないSF的な小説だと思った。そして、どうやってものがれられない「砂」という「何か」わからない呪縛にイライラを感じた。その時はそれくらいしかわからなかったのだ。
映画を見たのはそれよりずっと後になってからだが、小説よりはるかに衝撃的だった。
何といっても最大の驚きは、映像として表現しにくい世界を具現化している点である。
「砂の女」はいわば観念的な、頭の中の物語である。それを映像として見せた勅使河原宏という人のすごさにも敬服した。勅使河原監督の安部公房ものは「砂の女」の他にもいくつかあるが、「砂の女」に優る作品はないだろう。
その理由のひとつとして、主演女優、岸田今日子の存在感があったのではないかと思う。
映像はモノクロームなのに、若かりし頃の岸田今日子のなまなましい演技と、それとは逆の突き放したようなそっけないセリフによって、仮想の世界がどんどんリアリティーを増してくる。
見ているうちに、「砂の女」とは人生そのものだ…と、私は思ったのだった。「砂」とは降りかかる運命である。逆らおうともがいても飲み込まれて、しまいには自らその境遇に甘んじ、運命を受け入れるようになっていく…。人生とはまさに「砂の女」の日課のように「穴」の中に落ちてくる「砂」を毎日毎日すくいだしているようなものだ、と。
岸田今日子の低音で吐かれる一言一言はずっしりと、まさに砂のように重かった。
KEI
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| 2007-02-20 21:45
| Book & Cinema