2010年 08月 16日
階段をめぐって
|
真夏のこの時期、「カイダン」と聞けば誰しも「怪談」を思い浮かべるだろう。
松本泰生著『東京の階段』は、「怪談」ならぬ「階段」の本である。
もっとも怪談も階段もどこか謎めいている、という意味では共通点があるのかもしれない。
例えば「おばけ階段」。根津にあるこの階段は上る時と下る時で段数が違う…これはまさに怪談だ。
住吉町の「念仏坂」と名付けられた階段は、両側が谷になっている。その危険さゆえ通行人が念仏を唱えながら往来したのが、その名の由来となっているそう。
市ヶ谷の宝竜寺坂は別名「幽霊坂」と呼ばれていた、など。
13階段といえば処刑の意味、13段は忌み嫌われる。
『東京の階段』は公共の通路としての階段を集め研究した階段通路の集大成だが、ただの案内書ではない。そこには著者の階段への愛着が見え隠れする。
著者曰く、「階段は美しい」。
それは、
階段自体が美しい場合、
階段を含む風景全体が美しい場合、
階段から見下ろす風景が(例えば桜坂のように)美しい場合、
の三通りに大別されるそうな。
美しさだけでなく、不思議さ、楽しさなどを細かく観察し、考察している。
中にはすでになくなってしまった階段もある。再開発やバリアフリーが叫ばれる中、高齢化社会において不便な階段は消えゆく運命にあるのだろう。
都市でも階段状の地域がある。例えば長崎や熱海のような海からすぐに山へ移る高低差の激しい土地だ。街中至るところが階段である。
長崎の最も著名な観光地グラバー邸は、市内一見晴らしの良い立地だが、そこへ行くためには階段や坂を上らなければならない。今では誰でも苦労なく行けるように長いエスカレーターが堂々と設置されているが、長崎の異国情緒をあてにしている者には、その姿はえらく興ざめに映る。
湘南、江ノ島も階段が多い。江ノ島神社への参道は「エスカー」と名付けられたエスカレーターが続いている。エスカーでお手軽に神社詣…あまり御利益はなさそうである。
グラバー邸も江ノ島神社も観光名所だから仕方ないのかもしれないが、一足飛びに目的地に着ければいいかと言うとそうではなく、そこに至る途中の階段や坂道の情緒全てを体感するのが観光という行為ではなかろうか。
私は、階段というとTBSのかつての名作ドラマ「向田邦子新春シリーズ」を思い出す。
新春シリーズは、夫を亡くして母と娘たちだけとなった女家族の物語だったが、毎回同じメロディーに乗って、
「その頃、私たちの住まいは池上の本門寺の石段を上がったところにありました」
という黒柳徹子のナレーションで始まるのがお決まりだった。
いつも気になっていながら未だに行ったことはないので、このシーンの階段が果たして本門寺の「本物」であるのかどうかを確かめてはいないのだが、階段は、話の始まりだけでなく、場面転換の時に必ず登場する。上り下りする場面で、新たな出来事が始まったり、よからぬ出来事もその場面で一旦リセットされたりと、階段は人生のスタートややり直しの役割を果たしていたのである。
残念ながら本書で紹介されている階段は東京でもかなり中心部のエリアに限定されているため、池上の辺りの階段は載っていない。いずれはこの目で確かめてみたいと思っている。
ところで、アートの世界で「階段」と言えば、真っ先に連想されるのはオランダの画家、エッシャーである。エッシャーが描く階段は、行けども行けども不思議なことに元の位置に戻ってしまう。メビウスの輪のようなぐるぐる階段は不条理の代名詞のようだ。
建築にも階段はつきものだが、どこへもたどり着くことのできない階段がある。
行き着く先は厚い壁だ。ベルリンのユダヤ博物館で、建築家ダニエル・リベスキンドは、行き先のない階段でユダヤ人ホロコーストを表現した。胸を締め付けられるような悲しい階段である。
海の中にも階段はある。
沖縄や九州の沖合には、明らかに人の手でつくられたと思われる階段が存在している。海中に眠る古代の神殿の一部なのだろうか?解明がなされていないだけに謎は深い。
階段とは、単に土地の高低差を埋めるだけでなく、様々なドラマを秘めている。
「階段」と「怪談」、こうしてみると案外縁は深いようである。
KEI
by kmd-design
| 2010-08-16 13:29
| Essay